どちらかといえば、負けず嫌いな性格をしています。少なくとも、自分ではそう思っていました。
勝負事では、やはり勝ちにこだわりたい。
しかし、結果が出てからの勝ち負けにはあまり価値を見出しません。負けたら負けたでしゃーないよな、と自然に納得します。これって、別に負けず嫌いじゃないような気がしてきました。
私の中にある負けず嫌いは、「絶対に勝ちたい」とか「何が何でも負けたくない」という気持ちではないようです。もしそうなら、どれだけ姑息な手段を使っても勝敗にこだわるでしょう。しかし、そういうメンタルモデルは持ち合わせておりません。むしろ忌避しています。
じっくりと観察してみると、ようは「最後の瞬間まで勝ちを目指す姿勢を放棄したくない」という価値観なのではないかと思い至りました。
たとえば、マージャンというゲームがあります。人間が四人(ないしは三人)集まって行うゲームです。
長い間マージャンをやっていて痛感するのは、ゲームの面白さ(あるいは質)を作るのは、参加しているプレイヤーなのだ、ということです。打ち手のクオリティーが高ければ、そこで繰り広げられる勝負の質も引っ張り上げられます。
でも、仮に4人中3人がガチで勝負していて、1人だけが「勝ち負けなんてどうでもいいっす。自分が楽しめればいいんでしょ」という姿勢を持っていると、勝負の場はゴトゴトと音を立てて崩れ去っていきます。1000点の争いをしているなかで、適当な牌を切って8000点の放銃。それで勝負はほとんど決まってしまう。場の空気がどんどん冷えていく様子がイメージできます。
基本的に「そんなの知らねー」と斜に構えた姿勢を持っていたほうが楽なのです。勝ちにこだわって、必死に打ちまわして、それで負けてしまえば何かが傷ついてしまうかもしれません。落ち込みや悔しさが発生することだってあるでしょう。だから、それを避ける気持ちは十分わかります。
でも、斜に構えているうちは、「楽しさ」ってそれほど大きくはならないと思うんです。ようは絶対に負けないイージーモードでプレイしているのと同じですから。最初のうちは暴れまわって憂さ晴らしができるかもしれませんが、続けていくうちに虚しさが漂ってきます。人間というのは、えてしてそういうものです。
現状4位なら、3位を目指して、
3位なら、2位にあがることを狙って
2位なら、逆転に向けて
1位なら、堂々たる勝利に向けて
それぞれのポジションで、自分の中の「勝ち」に向けて、何かしらの工夫を入れていく。そうしている間は、ゲームがつまらなくなったりはしません。それが生まれるのは「どうせ、こんなの無理だよ」と何もかもを放棄するときです。
「最後の瞬間まで勝ちを目指す姿勢」というのは、つまり自分の人生に充実を感じる瞬間を1秒でも増やしたい、というある種の利己的な思いから出てきているのかもしれません。しかし、社会というのはマージャンのように人と人の相互作用で出来上がっているので、利己的な思いから出てきている行為が、利己的にとどまっているとは限りません。
当ブログはアルファブログは目指しておりませんが、それでも一人でも多くの人に読んでもらえたらな、という姿勢は放棄しないようにしております。