さて、1月17日である。
何年たってもこの日付は思うところが多い。
去年はどうだったかなと思って一年前の更新を読んで見ると「ライブドアショック」がちょうどこのタイミングだったようである。
あれからもう一年経つのかという思いと共に、12年という歳月についても考えてしまう。
12年といえば干支が一巡する。生まれたばかりの子どもが小学6年生になる。
ということは来年になると、震災を直接体験した小学生というのはもういなくなってしまうということだろう。
そう考えると、12年という歳月はとてもとても長く感じられる。
早朝に私も短く黙祷を捧げた。
震災で無くなった方々への祈りであり、そしてそこに残され(残ることができた)生きている人々へ対しての祈りである。
死別というのは生きている人間と去り行く人間に線を引くことだ。分かたれた人間は決してもう交わることは無い。死者は静かに眠りつづけ、残された人間は苦悩と共に生きていく。
どんなに悲しかろうが、苦しかろうが、それを感じることが出来るのは生きている側の人間である。だからこそ生き続けることが残された人間にできることである。
死者の魂を自らの内側に抱えて生きていく。死者は記憶の中にのみ生きることができる。
何事も無く暮らす毎日の中で、こういった特定の日付によって、我々は人間とそれを取り囲む環境の脆さについて思い出すことができる。
それは、歴史を積み重ねていく上で非常に重要なことだと思う。
それは社会的にも意味のあることだし、またそれぞれの個人にとっても意味のあることだろう。
そういう意味で日本社会は教訓を生かせているのだろうか。おそらく徐々にではあるが社会的に防災というものに関心がもたれてきているような気がする。
もしそうであるとするならば、我々が失ってしまった大きなものの代わりになりうるかもしれない。
そうであることを願うばかりだ。
線のこちら側、あちら側の人々が安らかに眠れるように。
2006年 1月17日「1月17日。あれから11年。 」
2005年 1月17日「1月17日という日」
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