街を歩いていたり、テレビを見ていたりすると今の日本には本当に「時間を潰すための装置」というのがとてもたくさんあることに気が付く。
実益を兼ねた趣味とかでなく、単純に時間を潰すためだけに存在するようなものというのはこの社会で生きる人間には必要なものなのであろうか。
我々は常に現実と向き合う必要に迫れている。
だが、その現実は自分にとって必ずしも心地よいとは限らない。
さまざまな方向からさまざなプレッシャーが人にかかってくる。
それを緩和する術や、緩和してくれる人を近くに持つならばよい。
しかし、現実からのプレッシャーがあまりにも大きすぎる場合、人は逃避することを選択する。選択せざる得ない。
逃避する先は人によって様々だろう。概してそれは「空想された空間」であることが多い。
そこはは当然心地よいものである。誰かがそこに準備して用意してあるものなのだから。
その逃避先があまりにも心地よすぎる場合、現実と逃避先との重みというのがその人の中で逆転してしまう可能性すらある。
あらかじめ用意された現実的逃避先(逃避的現実)の中では情報が全てである。あるいは存在の全てが脳内で補完されているといっても良い。
そこでは現実的肉体感覚というのものはほぼ無視されている。
本来人間というのは、肉体と脳という一種の綱引きのなかで生きている。
脳は情報を処理し、肉体は入出力を受け持つ。大抵の苦痛というのは情報処理施設としての脳ではなく、肉体が発端となって感じるものである。あるいは他者との交わりのなかで生じるものだ。
もしただ脳だけの存在となることが出来れば、おそらく脳にとっては一番心地よい状態に至ることができるかもしれない。
しかしながら、現実的に人が生きていく上で、脳も肉体も両方必要なものである。
他者との接触というものも当然必要なものだ。その矛盾を解消しきれないとするならば、この社会で生きるというのはただの地獄でしかないかもしれない。
過度の社会の情報化というのは極限までの肉体との離別ということになるのかもしれない。
最近よく目にする猟奇的な殺人事件というのは、こういった肉体感覚の欠如あるいは麻痺ということに起因しているのかもしれない。現実に他人との接触が少なくなればなるほど、こういった状況は増えていくのかもしれない。
そういった状況を改善していくためには何が必要なのか。
少なくとも情報化社会を改めるということは出来ない。それならば人間がおかれている環境を変えていくしか無いだろう。それは社会の中での人間のポジションと関係性ということになるのだろうが、今の日本においては「職業」というものしか存在しない。
そのあたりに問題が潜んでいるのではないかと思う。