ちかごろの「ライフハック」について、以下の興味深い記事があがっていました。
「ライフハック」はくたばらないといけない(Lifehacking.jp)
こんかいは、それについて少し考えてみます。
「ライフハックの罠」
スコップで穴を掘ってから、その穴を埋めているだけの人をみたら誰しも奇異に感じることでしょう。しかし注意しなければそれは「ライフハックの罠」そのものなのです。
「ライフハックの罠」とはなんでしょうか。いくつかの側面から考えられそうです。
第一に、「やるためにやっている」という状態に陥ってしまうこと。手段の自己目的化、なんて言い方もしますね。これはライフハックに限らず、会社経営から健康管理までありとあらゆる領域に顔を出す問題です。
ライフハックにおいて、これが発生する要因は二つ考えられます。
一つは、自身の「目的」を定期的に確認する作業を怠っていること。簡単に言えば、惰性で日常を繰り返しているということです。ある状況で効果を発揮していた手段も、状況が変わればその光は失われてしまいます。それに気づかず錆びた剣を振り回しても、モンスターを打ち倒すことはできません。
この場合の「状況」は、職場や役職といったものだけではなく、自分のスキルや経験といったものも含まれます。運転に慣れたら補助輪は外した方がよいのです。しかし、「昨日」を繰り返しているだけでは、補助輪は付けっぱなしになってしまうでしょう。
もう一つの要因は、中途半端なパクリによるものです。
他の人が「これ便利ですよ!」と言えば、即座に飛びついてしまう。それがどんな状況において、どんな目的を達するものなのかを考慮しない。その上、自分の状況において、自分の目的を達成するのに役立つのかも考慮しない。まさに「やるためにやっている」です。本来はそこに「熟慮」(※)という段階が必要でしょう。
※反応的に行動するのを止める
もし、パクる先の人が、自分と同じような道のりを歩いているのならば、問題は少ないかもしれません。目的が重なる部分が多いからです。状況も近い部分があるでしょう。しかし、まったく違う状況の人のノウハウを部分的にパクって、何か意味があるでしょうか。
この問題は、ライフハックの「市場化」にも関係してきます。
ライフハックの「市場化」
最近ではすっかり下火になっていますが、一時期「ハック」やそれに類するタイトルを持つ本が次々に発売されていました。ウェブ媒体でも取り上げられることが多く、勉強会やセミナーも乱発されていました。ようするに「ネタ」になっていたのです。別の表現をすれば「市場化」していたのです。この「市場化」は、一般的に悪いイメージで使われますが、実際のところ、単に功罪があるだけです。
市場化が進むメリットの一つは、普及への貢献です。その情報を知っておけば、何かしらのプラスになる人に情報が届くようになります。この意義はバカにはできません。私なんかが、ブログ界隈の隅っこで何かを発信していても、届く人は限られています。「ライフハック」という言葉がバズったことで、そこに含まれる有用なテクニックにアクセスできた人は少なくないでしょう。
また、その他の市場化と同様に、コンテンツの多様性を生み出すメリットもあります。有名人から草の根の仕事人までのハック、あるいは仕事から生き方に関する幅広いハック。それが市場化によって掘り出されてきたことは間違いないでしょう。
しかし、その反面「これってハックなの?」と首をかしげるものも出てきました。それは上のメリットの副作用なので「ぐぬぬ」と言いながら受容するしかありません。
では、市場化のデメリットは何でしょうか。
それは「過剰な押しつけ」を発生させたことです。「そのノウハウいいね!」と情報を交換していた状態が、「これをやらなきゃ!」という煽りが飛び交う状態へと変化しました。だって仕方ありません。「売らな」(※)ければいけないんですから。ビジネスという戦場で生存し続けるためには、使えるものはなんでも使わなければいけないんです!なんて発言をキリッとした顔で言われても納得できないかもしれませんが、ともかく現実はそのように状態が移行してきました。
※販売やPV数の獲得を含めた、かなり広い意味で使っています。
ともかく「売らな」ければいけない以上、「こういう状況には使えます」なんて限定するよりも、「ほら、これが全ての問題をまるっと解決しますよ」と謳う方が効果的です。少なくとも、そう謳いたくなる圧力が異次元の奥底から発生してくるでしょう。
だから展開されるコンテンツも、「こんな状況で、こういう目的のためにやっています」という部分は__意図的かどうかはわかりませんが__省略され、あたかも万能薬のような印象を与えるようになってしまいます。これが「ライフハックの罠」に拍車を掛けることになるのです。
より深く危うい疑問
もう少し根源的な問題にもアプローチしていみましょう。以下は日本語版ウィキペディアの「Lifehack」からの引用です。方法論としては自身の生活や仕事のスタイルにおいて「気の利いた手段で、もっと快適に、もっと楽して、もっと効率良く」という方法を追求して行くことに他ならないが、これをコンピュータやシステムを解析し追求するように体系化していったものがいわゆるLifeHackである。この中にはコンピュータを使いやすいように工夫するというものから、ガジェット(気の効いた小物・小道具)を使いこなす、さらには人間の生理機能上で効率良く作業するための方法論(→人間工学)など多岐に渡る。
ここで、一つの疑問が浮かび上がります。
「人生を、効率化の対象にしても問題ないのだろうか?」
言い換えれば「ライフをハックしちゃっていいの?」という疑問です。
ジャロン・ラニアーはその著書『人間はガジェットではない』の中で、次のように書いています。
人であることと人を完全に理解できることは異なる。人であるとは、探求であり、神秘であり、根拠のない信念なのだ。
これは「体系化」を目指すのとは、まったく異なる姿勢でしょう。体系化された神秘?矛盾ではないにせよ、言葉が持つ意味の大部分が消失しています。
いや、違うんだよ。生き方を体系化するのではなく、生き方に関する工夫を体系化するんだよ。という反論もあるかもしれません。その二つが厳密に区分できるのなら、問題はないでしょう。そうでないなら心配が残ります。
行動心理学の分野で、非常に有名な「罰金」の実験があります。ある保育園で子どもを迎えにくる親の遅刻が多く、保育園側の負担も大きかったので、遅刻したら罰金という制度を取り入れた。結果、余計に遅刻が増えてしまった。他者に迷惑をかけるという社会的行為から、サービスを買うという概念に移行してしまったためだ。なんて説明がなされます。
人間というのは不思議なもので、「対象をどう捉えるか」で、それに対するリアクションも変わってきます。人生をどのように認識するのか。自分を・仕事を・その他の人々をどのように認識するのか。それらはわりと重い要素です。
人生を効率化の対象として認識してしまった場合、変質してしまうものはないのでしょうか。もし、あるとすればそれはどのようなものでしょうか。それは失われてしまっても問題ないものでしょうか。
そういう疑念は、心の奥底の方で常にキープしておいた方がよいのかもしれません。
さいごに
日本のライフハックブームの始まりから情報収集を続けてきた人は、きっともうお腹いっぱいになっていることでしょう。しかし、まったく知らない人にとってはそういう情報はありがたいものですし、常なるバージョンアップも欠かせません。話題性が下火になっても、この分野の情報の必要性がゼロになるわけではないのです。
ちなみに、下火になっても続けている人こそ信頼できる人です。風向きが変わるたびに、ほいほい居場所を変えて「今はこれです!」と高らかに歌い上げながら財布を肥やすような人は、__別に害はないにせよ__あまり信頼の置けるものではありません。
話が逸れました。
まとめると、まず次の二つを忘れないようにしましょう。
- 手段と目的がマッチしているか
- そもそも目的は何だったか
これを定期的に確認する習慣があれば、罠にはまり込む可能性はぐっと低くなります。仮にはまり込んでも脱出できるでしょう。
もし溢れかえったテクニックやノウハウで満脳(満腹の脳バージョン)になっている人は、整理術の基本的なテクニックを応用してみるとよいかもしれません。
物が溢れかえったカオスな机を整理する場合、一旦すべての物を机からどけて、その後必要なものを、適切な場所に配置していくというやり方があります。同じように、テクニックやノウハウを無視してみて、「あっ、ここでこれがあったらいいな」と思うものから再び取り入れてみる。そういうやり方です。
と、考えてみるとこういうのもライフハックの一種です。「ライフハックと付き合うためのライフハック」になるのでしょうか。だんだん迷子になってきました。
といったところで今日はこれまで。
※2013/08/14 9:40 導入部分を修正
▼こんな一冊も:
郵便配達は二度ベルを鳴らす (新潮文庫) |
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ジェームス・ケイン 田中 西二郎
新潮社 1963-07 |
人間はガジェットではない (ハヤカワ新書juice) |
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ジャロン ラニアー 井口耕二
早川書房 2010-12-16 |
暦物語 (講談社BOX) |
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西尾 維新 VOFAN
講談社 2013-05 |
いつも楽しく拝見させて頂いております。一個人の感想としてお聞き下さい。私自身は広島生まれの30代男性ですが、8月9日は長崎への原爆投下の日という強いイメージがあり、本記事の導入にはかなり違和感を覚えました。1年のどの1日も特別ではなく、どのように記念日を考案してもいいのだとは思うのですが、もしかすると、私と同じように違和感を感じる人がいるかもと思いコメントさせて頂きました。失礼をお許し下さい。
>Yutakaさん
コメントありがとうございます。たしかに、冗談にしてもあまり適切なものではなかったかもしれません。私の配慮不足でした。趣旨には直接関係ない部分のなので、修正させていただきます。ご指摘ありがとうございます。