『ヤバい経営学』からブログの手法を学ぶ連載。
ヤバい経営学: 世界のビジネスで行われている不都合な真実 |
|
![]() |
フリーク ヴァーミューレン Freek Vermeulen
東洋経済新報社 2013-03-01 |
第一回:日の当たらない(ブログの)競争力の源泉
第二回:決してコピペできない(ブログを形作る)要素
第三回:エドおじさんを食べてはいけません
書評記事:【書評】ヤバい経営学(フリーク・ヴァーミューレン)
今回は、「無益」な研究について。
研究開発部門と真似のコスト
多くの企業には、「研究開発部門」があります。新しい技術や製品、サービスを生み出すことを目的としたチームです。しかし、新しい技術なんて、そうそう生み出せるものではありません。おそらく多くの研究開発部門が、それを維持しているコストに見合わない成果しか生み出せていないのではないでしょうか。
きっと、「経営合理化」が行われれば、まっさきに整理対象にあげられます。
経済学者や経営組織論の研究者は、長い間、研究開発部門は何かを創り出す場所だと見なしていた。そして、最終的に製品化されて利益を稼ぎ出すものを生み出した場合だけ、研究開発に投資した甲斐ががあったと見なされる。つまり、もし何も生み出さなければ、お金の無駄遣いだと誰もが考えている。
しかし、著者のフリークはその考え方について、ある種の欠落を指摘します。その欠落とは「真似のコスト」です。
経済学者は、いつも真似の過程はコストがかからないと考える。つまり、ただ対象を見つけて真似すれば、それでおしまい、というわけだ。
きっと経済学者の仕事では真似のコストはほとんどゼロなのでしょう。しかし、「技術」に関してはそうはいきません。
(前略)競合他社の真似は、そこまで簡単ではない。研究開発に一切投資しない企業にとっては、競合のアイディアを盗むのは難しい。そういう企業は、競合のやっていることを十分に理解できないのだ。
たとえば、プログラミングで考えてみましょう。
実際、まったく言語についての知識がなくても、公開されているコードを丸々コピーすればある種の「機能」を手にすることはできます。でも、できるのはそこまでで、自分の環境用にアレンジすることはできません。
逆に言えば、一定の言語知識があれば、自分でそのコードをゼロから書き上げることはできなくても、完成したコードを「読ん」で、自分なりに書き換えることができます。
直接成果を生み出せる技術・能力でなくても、何か他の役に立つのです。
もし、「直接的成果」しか評価していなければ、上のような能力は「意味なし」と切り捨てられるかもしれません。しかし、実際切り捨ててしまうと、想像以上に失うものが大きい、というわけです。
二つの難しさ
このことから得られるブログの教訓とはなんでしょうか。一つは「パクること」の難しさです。
ある程度「ブログ的経験値」を積んできている人ならば、「意図」や「効果」について理解した上で、ノウハウを使うことができます。
しかし、まったくのシロウトだとそういうワケにはいきません。そういう人が、つまみ食い的にパクっていってもノウハウに振り回されるのは目に見えています。そうなるぐらいだったら、ノウハウなんか知らなかった方が良い、とまで言えるかどうかはわかりませんが、あまり面白い結果にはならないでしょう。
もう一つは、「後輩の指導」の難しさです。
すでに成果を上げている人が、後続の人に「無駄な」努力をしないように、すっきりとしたノウハウを提示してくれたりもしますが、ある部分では「おせっかい」な要素があるのかもしれません。それはつまり、その人の「研究開発部門」の育成を妨げているのに等しいからです。
特に、「この通りやっておけば間違いない」というのは、かなり危険です。
さいごに
試行錯誤というのは、その過程の中で得られるものがたくさんあります。成果を得ることは大切ですが、それ以上に成果を得続けることの方が大切です。そして「続ける」ためには、無益に見える研究開発部門を大事にしておかなければいけません。
結局の所、何かが「無益」だと思っても、その評価軸を作っているのは__愚かしく、無知で、開発途上の__自分でしかありません。自分の視野が広がれば、また新しい評価軸が生まれてくることもあります。
「こんなこと何の役に立つんだ」
なんて疑問が湧いてきたら、「今の自分にはわからないことがあるかもしれないな」と自分で反論してみてください。そういう自己処世術はときどき役に立ちます。
One thought on “「無益」な研究の益”