3,416。
当ブログに公開されている記事の総数です。おっと、この記事も加えると3,417になりますね。2004年の3月6日からえっちらおっちらと続けてきました。
さすがにこれだけ続いていると、「ブログ勘」のようなものが育ってきます。といっても、たいしたものではなくて「こういう記事を書いたらあまり受けないだろうな〜」とか「こういうタイトルはバズらないだろうな〜」という感覚です。
※不思議とプラス方向の勘はあまり働きません。
これはある種の「経験則」と呼べるのかもしれません。それに沿っていれば、ある種の効率を手に入れることができます。
それはつまり、何かを手放しているということです。なにせ手で掴めるものには限りがあるわけですから。
当ブログも、ある程度「型」みたいなものがあります。書評記事のスタイルとか、アプリの紹介とか。そういう型を持っていると、(ある程度)更新は楽になってきます。きっと読む人も(ある程度)楽に読めるでしょう。
水戸黄門を見ていて必要以上に混乱しない、というのと同じ意味合いにおいて。
ときどき、新しいアイディアが降ってきます。「こういう書き方したら面白いのではないか」「こんな記事のスタイルはどうだろうか」
そんなアイディアです。
でも、その記事を書こうとするとき、ある種の感情が湧き上がってくるのです。その感情に名前を付けるとすれば、それは「恐怖」になるでしょう。そう、怖いのです。「こんなことを書いたら、評価されないのではないか」、「らしくないのではないか」、「普段読んでもらっている読者さんにアンフォローされるのではないか」。そんな感覚です。
なにせ、新しいアイディアは、まったく新しいことを意味します。つまり前例がないわけです。
片方に、前例があってそこそこの実績がほぼ確定している方法があり、
もう片方に、前例が無くまったくどうなるかわからない方法があります。
そういうとき、つい「前例」のある方を掴んで、そうでない方を手放したくなってくるのです。そういう自分に気がつくと、似たような企画を繰り返す会社を「大企業病」なんて非難できないな、なんて苦笑が浮かびます。
新陳代謝。古い細胞が死に、新しい細胞が生まれてくる。絶え間なく繰り返されるそのサイクルで、私たちの「生命」が維持されています。
何かを維持する、つまり変えないためには、何かを変え続けていく必要があります。
たぶん、新しいタイプの記事を書いたら、離れていく人はやっぱり出てくるでしょう。でも、それによって新しい読者さんと出会えるかもしれません。それに、なんだかんだで読み続けてくれる人もいるでしょう。
「ブログにアクセスしてくれる人」も一様でなければ、「読者さん」というのも、じっと見つめると一様でないことに気がつきます。
「型」を繰り返していけば、型は上達するでしょう。でも、幅は広がりません。書き手として上達していくためには、幅を意識することも必要ではないかなと感じています。
もちろんこれは「人気ブログを作るための方法」ではありません。あくまで書き手としての成長という視点です。
『ソードアート・オンライン』という小説の中で、主人公のキリトが「自分はコピーされた人格ではないのか?」という自己疑問を持ちます。人格のコピーなんて薄ら寒い話ですが、もしかしたら近い将来そういうことが可能になるのかもしれません。キリトは、自分が自分であることを確かめるために、
「自分ならまず絶対にやらないであろう行為」
をやってみました。それは、コピーされた人格であれば決してできない行為なのです。
幸い彼は、自分が自分本人であることを自覚できました。
「自分でやることを自分で決める」というのは、なかなか複雑な要素を含んでいます。
x = x + 1 は数式としてみるとすごく不自然ですね。
最近だと、「ぶれない軸と刀鍛冶」みたいな記事アップしたとき、ちょっとドキドキしました。幸い良いリアクションをもらえましたが、R-style的には一つのチャレンジであったことは間違いありません。
これからもちょくちょく変わった記事が出てきて、変わらないR-styleであり続けると思います。
▼こんな一冊も:
ソードアート・オンライン (9) アリシゼーション・ビギニング (電撃文庫) |
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川原 礫 abec
アスキーメディアワークス 2012-02-10 |
One thought on “経験則とチャレンジと恐怖心についての断章”