読書において、ペンをお供にすること。
『ハイブリッド読書術』でも推奨していますし、私自身、本を読む際にペンがないと不安な気持ちになります。まさに必需品といった感じ。
思いついたことを欄外にメモするだけでなく、気になった箇所に傍線を引くのにも役立ちます。マーキングですね。
そうしたマーキングの効用は、読了後にジワジワと染みてきます。読書メモをまとめたり、書評を書く際に大活躍するのです。
が、そうした短期的な効用だけがマーキングの効用ではありません。長期的にも、面白い効用があります。
感じられるもの
私たちは、(程度の差はあれ)時間と共に変化します。知識が増え、技能が増え、知り合いが増え、職業的体験が増え、恋愛的経験が増え、ツイート数が増え、・・・と、まったく同じ状態で居続けることができません。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。しかし、紙の上の情報は元のままであり続けます。
私はある時期から、本にペンを入れるようになったので、本棚には「まったくペンが入っていない本」と「ペンが入っている本」の二つの層が含まれています。
で、「ペンが入っている本」を、時間をおいて読み返すと、とても興味深い体験が得られます。
一つは、「なぜ、こんなところに線を引いたのだろうか」という部分にぶつかること。表現がすっかり色あせ、事実が自分の中で完全に陳腐化している文章に、くっきりと線が引かれているのです。たぶん、私が何かしらの成長をしたということなのでしょう。
一方で、「なぜ、この部分に線を引かなかったんだろう」という部分にぶつかることもあります。読み返してみると、深々と感じるような文章なのに、まるで誰もディフェンスが戻ってきていない敵陣を駆け抜けるフォワードのようにあっさりと読み飛ばしているのです。これも、私が何かしらの変化を遂げたということなのでしょう。
どちらにおいても、「線を引い」ていない場合、私はそれをつかみ取ることができません。どこに感じ入ったのか、どこに感じ入らなかったのかを、今の自分から判断するのは難しいものです。特に後者は至難の業でしょう。動かない傍線があるからこそ、それを基準にして自分自身の変化を計ることができます。
これがマーキングの長期的な効用です。これは、「記録」に一般拡大しても通用する話です。
さいごに
人は時間と共に変化する、という事実を考慮した場合、もしかしたら一番面白いのは「線を引いた部分に、時間が経っても、同じように感心する」
ということなのかもしれません。
それは、否定しようもないぐらいに自分の「軸」を構成する要素を映し出すものと言えるでしょう。
▼こんな一冊も:
ソーシャル時代のハイブリッド読書術 |
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倉下 忠憲
シーアンドアール研究所 2013-03-26 by G-Tools |