もし、たった一つのことしかできないのであれば、話はシンプルです。
考えるのは、やるかやらないかだけ。一度やる決断をすれば、あとは愚直に邁進するのみです。実行中に悩む要素はありません。
しかし、行動の中の選択肢が増えてくると、話にややこしさが混じり込んできます。
「このやり方でよいのだろうか」「他のやり方はどうだろうか」「あんなやり方ができたらいいのに」
想像が膨らむとともに、手の振りが鈍くなり、やがて足が止まります。
何かを覚えたての時は、とてもスムーズにできていたのに、少し習熟してくると、途端に迷いが入るようになる。自分の中の選択肢が増えたことで、判断しなければならない対象が増えたのです。しかし、脳はその負荷にまだ対応できていません。だから、なかなかうまくいかない。よく見られる風景です。
おそらくその迷いは避けられないのでしょう。避けようとすれば、トラップに嵌り込みかねません。なんといっても、人間は不完全な存在です。完全な人間であろうとしてしまえば、人間ならざるものに成り果てるか、あるいは詐欺に引っかかるかのどちらかが待っています。人は迷いと共に生きていく生物なのです。
しかし。
最初のうちに、こうした迷いが出てくるのはあまりよろしい状況とは言えません。守破離という言葉が示しているものも、これなのでしょう。ともかく、最初のうちは「たった一つのこと」に集中する。それが何かを実行するためのたった一つの冴えたやり方です。
ある程度の自己裁量は、確かに柔軟性を増します。カスタマイズにもそれは必要です。
しかし。
最初のうちは、「だまされたと思って、その通りにやってみる」、というのが良いかと思います。結局やってみて、何も効果が無かったとしても、「それには効果が無い」という確信が得られます。微妙な自己裁量によって得た結果は、結局の所、中途半端な懐疑しか残しません。
その懐疑は、無益であるばかりでなく、ほとんど有害といってもよい存在です。自分の中にある「信じる」という心の働きを蝕んでいくのです。最終的には、自分自身すら信じられなくなってしまう。そんなことも起こりうるでしょう。たとえそれがなんであれ、正しいことと間違っていることが、はっきり線引きできていることは、とても大切です。少なくとも、心の働きにとって、とても大切です。
しかし。
「だまされたと思って、その通りにやってみる」というのは、最初のうちだけの話です。それをずっと続けていくのもあまりよろしい状況とは言えません。
それについては、また回を改めて。
▼こんな一冊も:
たったひとつの冴えたやりかた (ハヤカワ文庫SF) |
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ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア 浅倉 久志
早川書房 1987-10 |
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