『梅棹忠夫の「人類の未来」 暗黒のかなたの光明 』という本をパラパラと見ていたら、巻頭カラーに梅棹氏の「こざね」が掲載されていた。
梅棹忠夫の「人類の未来」 暗黒のかなたの光明 |
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梅棹忠夫 小長谷有紀
勉誠出版 2011-12-16 |
『人類の未来』という未完の本の構成を練るために使われた「こざね」である。目次案とその「こざね」からうかがえる本の内容は、きっと現代において、いやむしろ「今」必要とされるものだったに違いない。そう確信させるだけの雰囲気がその「こざね」にはあった。
疑問
言うまでもなく、発想の第一歩は疑問である。「カップラーメンを一番美味しく食べるための熱湯の温度は?」でもいいし、「地球環境にとって人類は有害な存在なのか?」でもいいし、「我々はなぜこの世界に誕生したのか?」でもいい。ともかく何かについて疑問を持ったとき、発想や思索がスタートすることになる。
こざね
「こざね」とは何か?アウトラインである。あるいはそのとっかかりと言ってもよいだろう。
小さな紙片に、書こうとしているテーマに関することをひたすら書き出していく。一枚にワントピックス。基本的には単語、あるいは短いセンテンス。あるいは、疑問。
それらを書き出した後、紙片同士つながりがありそうなものを集めていき、ホッチキスなどでつないでく。そうしてつながったものが「こざね」だ。そして、こうした手法を「こざね法」などと呼んだりする。素材から構成を生み出すための手法なのだ。
知的生産の技術 (岩波新書) |
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梅棹 忠夫
岩波書店 1969-07-21 |
※この本に詳しい。
現代では、アウトライナーに思いつくことをどんどん書き付けていき、そこから構成を練り上げるという手法がこれに近い。が、完全に同じとは言えない。アザラシとアシカのようなものだ。
方向転換
その「こざね」にも、もちろんいくつかの疑問が含まれてきた。しかし、答えはない。答えは書かれなかったのだ。
本来は、文章化される段階で、その疑問を出発点としてさまざまな論考が進められたのであろう。でも、それは書かれなかったのだ。
答えのない疑問は、視線を私の方に向けてくる。「おまえは、どう考えるんだ」と。
電子書籍
これからどんどん電子書籍が作られていくだろう。きっと、これまで本作りに携わっていなかった人たちの参画も増えてくる。「本」は多様化し、コンテンツ同士の争いはどんどん激化していく。そんな未来は簡単にイメージできる。
たとえば「おまけ」として、あるいは無料の販促コンテンツとして、その本を作成するために作った「こざね」を公開するというのは面白そうなアイデアである。
それは「こざね」だけに留まらない。集めた資料やメモ、使われなかった原稿など、公開できるものは多い。
もちろん、それ自身に価値はないだろう(だからおまけであったり無料であったりするわけだ)。素材から何を立ち上げたのか、そこにどのような「手」が加わったのか。そこがコンテンツの価値の大部分を占める。キュレーションをイメージすると良い。あれは、情報そのものではなく、情報を取捨選択してくれることに価値があるのだ。
が、それだけでは価値にはなりえない一つの疑問から、別の人間が別のアイデアを立ち上げるかもしれない。そういう広がりは、自分の利益とはほぼ無関係に良いものである。少なくとも私はそう感じる。
さいごに
私たちは、答えを他人からありがたく頂戴する。代わりに考えてくれたのだから、自分としてはショートカットである。でも、本当はその答えから疑問を抽出し、そこを出発点として自分なりに何かを考え、組み立てて上げていくことも必要なのではないだろうか。
答えが書かれなかった吹きさらしのような疑問を載せた「こざね」は、強制的にそれを求めてくる。
私たちには考える余地が必要だ。
時には、答えがその余地を浸食してしまう。あるいは毎日雑多に押し寄せる情報も同様なのかもしれない。
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