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よい記事と重箱弁当

@donpyさんは、いつも鋭く切り込んできます。

私は「数じゃないんだよ」派です。

昔は違っていたかもしれませんが、とりあえず今は「数じゃないんだよ」派です。

とすると、何が基準なのか。

それを明確に答えるのは簡単ではありません。ただはっきりしていることが一つあります。それは、

「投稿した全ての記事を<よい記事>だと思っている」

ということです。

投稿した記事=よい記事

別の言い方をしましょう。

「よしよし、これはよい記事だ」

と思ったから投稿ボタンを押した、ということです。逆に言えば、「よい記事」だと思えないようなものは投稿しないということです。

だから私の「よい記事基準」は、これまで投稿したエントリー群を眺めれば__言葉として定義できなくても__感じられるかと思います。

一部、告知のための記事などは例外として外れますが、それ以外に関しては、全て自分の感覚のジャッジメントにおいて「よい記事」だと判断していますし、どのような閲覧数(or はてぶ or いいね! or +1)であってもその判断が揺らぐことはありません。

究極的に言えば自己満足です。

アウトプットの触媒

しかし、ただそれだけなのかというと、そういうわけでもありません。

「これはよい記事だ」という判断は私の中で閉じていますが、外に開いている要素もあります。それは、

「この記事を書いてよかった」

と思えること。

たとえば、私の記事に触発されて記事を書いた人がいたり、私の考察を別の角度から考察した人がいたり、私が紹介した本を読んで全然別の書評を書いた人がいたり、私のブログを読んでブログを始めた人がいたり・・・、といった場面に遭遇したら「あぁ、書いてよかったな」とシンプルに実感します。

他人のアウトプットに何かしらの貢献をしたとき、「書いてよかった」としみじみと肯定できるのです。

重箱弁当的評価

つまりは、重箱弁当です。

下の箱に入っているのは白ご飯としての自己評価・自己満足。

上の箱に入っているのはおかずとしての他者への貢献。

白ご飯ばかりではつまらないですが、おかずばかりだと食べ続けられません。

両方があってこそ、なのです。

もちろん、土台となるのは白ご飯のほうです。これがまず基本にあって、その上におかずが乗っかってくる。おかずはおかずで、いろいろなバリエーションがありますから、上に書いたようなもの以外の要素もありえるでしょう。そこは何だって構わないのです。

ともかくこの二重構造が、記事に対する私の評価軸になります。

さいごに

@donpyさんの質問は、真剣に答えようとすると、自分の心の内側にあるものをさらけ出さなければいけません。

さて、皆さんはいかがでしょうか。

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