情報の伝達と対話

「正確に情報を伝える」とはどういうことだろうか。あるいは「正しく情報を伝える」であってもよい。

たとえば、端末Aと端末Bがあるとする。

Aが「0100100100100100100101000100001010111010101」と送信し、
Bが「0100100100100100100101000100001010111010101」と受信する。

これを「正確に情報が送信された」と表現するのは、頷ける。うん、大丈夫だ。

しかし、それが人であるならば、どうなのだろうか。人間と人間のコミュニケーションであったら。

たとえば、人間Aと人間Bがいたとする。

Aさんが「これはリンゴです」と発言し、Bさんが「これはリンゴです」と聞く。これで「正確に情報が伝えられた」と言えるのだろうか。あるいは「正しく情報が伝わった」と言えるのだろうか。

いささか心許ない気がしてくる。

これは、「正確」という言葉の意味、「情報」という言葉の意味、「伝える」という言葉の意味が関わり合ってくるので、なかなかややこしい問題だ。

情報とデータ

その意味では、端末A、Bの例は、おそらく「正確にデータが送信された」と表現しなおした方がシックリくるだろう。なぜなら、端末Aと端末Bで、データ解釈の区切りが違っている可能性があるからだ。

その結果、端末Aでは「0100100100100100100101000100001010111010101」は「月が綺麗ですね」というメッセージに、端末Bでは16x16の白黒GIF画像として解釈されてしまう。

ここまで極端な形でなくても、文字化けという現象は、データとしては同じでも情報として異なっている、という一例を示してくれる。

端末の話は込み入ってくると手に負えなくなるので、あまり深入りはしないでおこう。ともかく「情報」とはなんぞや?という話は簡単ではないのだ。

インフォメーションボードに「情報」はのっているのか?

駅にて、次の電車が到着する時刻を流す電光掲示板を眺める。インフォメーションボードだ。そこには「情報」が流れている。

しかし、あなたがアラブ諸国からやってきた人で、日本語がまったく理解できなければ(そして英語も全く理解できなければ)、そのインフォメーションボードからは(ほとんど)何の情報も得られない。

少なくとも、その人にとってそこに流れる文字列は__そのままの状態では__「情報」を有していない。たんなる記号の洪水だ。

二つ上の文で、(ほとんど)と付け加えたのは、「そこに何かしらの文字列が流れている」ということから何かが読み取れるかもしれないからだ。

文字らしきものと数字らしきものが流れていて、そしてそこが駅であるということを考慮すれば、何時に到着するか、あるいは遅れているのかどうかなどは理解できなくても、「電車が動いている」だろうことはわかる。

あるいは大部分が緑色で、ある部分だけ赤になっていたら、そこが要注意ポイントであることがわかるかもしれない。色が持つ情報を読み取ったわけだ。あるいは、色に持たせてあるであろう情報を推測したと言い換えてもよい。

何にせよ「情報の伝達」において、受け取り手は欠かせないファクターである。なんなら主役であるとさえ言ってよい。

「これはリンゴです」

別の角度から考えてみよう。

Aさんが指を指して、「これはリンゴです」と発言し、Bさんがそれを耳に入れる。

そのとき伝わる情報とは何だろうか。

まずAさんが「これはリンゴです」と発言した事実だ。そこから、Aさんは指さしているものがリンゴであると認識しているということも推測できる。

おそらくAさんは「これ=リンゴ」という事実をBさんに伝えたいのだろう。でも、それについては簡単にはいかない。

もし長年の付き合いで、Aさんがたいへんなジョーク好きであることをBさんが承知しているのならば、そこにあるのはレプリカではないかと疑るだろう。あるいはAさんがまったくの常識人である(とBさんが承知している)ならば、なぜそんな当たり前のことをこの人はいっているだろうか、を考えるかもしれない。もしかしたら、Aさんの皮をかぶった宇宙人なのではないか、と。

いや、こういう極端な話をしたいわけではない。

Aさんが意図する「これ」とは何を指しているのか、そして「リンゴ」とはなんのか。それをBさんは「正しく」受け取ることができるのか、ということだ。

Aさんはリンゴを指さしているように見える。でも、もしかしたら(リンゴ+皿)全体を指しているのかもしれない。あるいはそれがのっているテーブルも含んでいるかもしれない。あるいは、我々の足下に24時間存在する地球全体を指さしているのかもしれない。そう考えると「これはリンゴです」という言葉がひどく哲学的な響きを帯びはじめる。

さらにいえば「リンゴ」という言葉もやっかいだ。Aさんの中でリンゴといえば、ふじりんご一種を指すのかもしれない。ビール好きの人が、モルト100%のものだけを「ビール」と呼ぶように。そのとき、Aさんが口にする「これはリンゴです」は、他の人からすると「これはふじりんごです」と同一の意味を持っていることになる。でも、そのズレにAさんは気がつかない。Aさんにとって、リンゴ=ふじりんご、なのだから。

メッセージは伝わったか

言葉というものが多義的である以上、それによって行われるコミュニケーションは基本的に誤解に満ち溢れている。

もちろんここでも「何を持って誤解と呼ぶのか」という問題が立ち上がってくるが、それは却下しておこう。

自分が口にした言葉が、自分の意図を反映しているとは限らないし、さらにそれを受け取り、解釈する人によっていくらでも変化してしまう。

「危ないからはやく逃げなさい」と大声で叫ばれたとしても、それをきちんと耳にした人がその通りに逃げるとは限らない。「あんなこといってるけど、まだ大丈夫だろ」と。

言葉は伝わったのだが、メッセージが伝わらなかったのだ。

情報を伝えるというのは、私たちが考えているよりも、ずっとずっと難しいものである。

そこから始まるもの

では、どうすればいいのだろうか。

Aさんが「これはリンゴです」と言ったとき、あなたがBさんならどうすればいいのだろうか。

実に簡単だ。皿を指さして、

「これはリンゴですか?」

と聞き返せばよい。

Aさんが「いいえ、それはリンゴではありません。皿です」と答えれば、Aさんが指さしている対象がぐぐっと狭くなる。

もちろん、まだAさんがリンゴの頭から伸びたぴょんと細長いものだけを指している可能性はある。でも、Aさんが意図していたものと、Bさんが受け取ろうとしているものの差異はぐっと小さくなった。あとは、それをくり返していくだけだ。

たぶん、この差異は極限しても0にはならないのだろう。その意味で私たちは究極的には孤独な存在なのだ。でも、ぎりぎりまで__体温をその肌に感じられるぐらいまで__近づくことは、……そう試みることはできる。

さいごに

対話。

対話が必要なのだ。

ソクラテスは自分を逃がそうとするクリトンと対話した。ソクラテスは決してクリトンを説得しようとはしなかったのだ。ソクラテスは自分が考えるところとその理由を述べ、クリトンの反論を受け付けた上で、それに答えていった。

もし、クリトンが効果的な反論をソクラテスにぶつけることができたならば、ソクラテスはきっと考えを変えていただろう。しかし、クリトンはただソクラテスの結論を受け入れるしかなかった。

悲しい出来事かもしれない。ただ、クリトンは悲しいながらもきっと納得していただろう。ソクラテスの体温を感じていたはずだ。

マクルーハンが提示したホットとクールなメディアの対比。

ホットなメディアは、視聴者を参加させない。であるがゆえに、熱狂が生まれる。結局の所、ホットなメディアは視聴者が聞きたいことを聞いているだけなのだ。だから、熱狂が生まれる。

対話はクールなメディアだ。あるいはメディアの在り方といってもよい。

ブームはホットから生まれる。

では、クールなメディアから生まれてくるものとは何だろうか。

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