上のノートは、とあるブログのWebクリップです。
少し前の記事ですが、ちょっと考えてみたい疑問が提示されていたので、メモがわりにクリップしてみました。
MacのEvernoteで、そのノートを覗いてみると「関連するノート」としていくつかのノートが表示されました。ここでは3つだけ表示されていますが、ノートを広げると合計5つの「ウメサオタダオ展」の写真が出てきます。
ブログの中の方は東京で、私は大阪のウメサオタダオ展に出かけたわけですが、それがこのノートで見事に結合しています。
私は別に、それを結びつけようと意図したわけではありません。片方では、自分が行ってきた展覧会の写真を残し、
もう片方では、気になった記事をWebクリップした。
ただ、それだけです。
時系列を辿りましょう。
トップに掲げたノートの制作日が、2013年11月28日。
クリップしたBlogがアップされたのが、2012年2月10日。
私がウメサオタダオ展の写真を入れたのが、2011年5月2日。
みごとにバラバラです。
いったい、どんなツールならこんなことが可能でしょうか。
ソースを問わず、ただ自分の「関心事」によって集められた情報が、
記憶がつまづきやすい、時間の壁をかるく乗りこえて、
ある種のアルゴリズムによって結びつけられていく。
いったい、どんなツールならこんなことが可能なのでしょうか。
人間の「想起」というのは、すばらしいシステムです。おそらくそれがなければ、世の中に生まれ出た物語は、とても貧弱なものになっていたでしょう。でも、それは完璧に、完全に、万全に、機能するものではありません。先ほどの記事を読んだとき、私は自分がウメサオタダオ展に行ったことを、特に想起しませんでした。もちろん、行った記憶の感触はありましたが、それは「箱の中に何か入っているな」ぐらいの感触で、具体的なイメージが浮かび上がったわけではありません。
このEvernoteのノートを見て、「あぁ、そうだこういう展示あったな」とその時の記憶が蘇ってきました。
記憶が蘇る。
実に印象的な表現です。
Evernoteは記憶そのものではありません。Evernoteの情報に私が触れたとき、蘇ってくるものが記憶です。
そういう意味では、Evernoteだって不完全な存在です。
「私」という存在が欠落してしまえば、大きな意味は無くなってしまいます。
それぞれが不完全な存在であるからこそ、補完して生み出せるものがあるのかもしれません。
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