米大学乱射:32人死亡15人負傷 史上最悪の銃撃事件に
米南部のバージニア州ブラックスバーグにあるバージニア工科大で16日午前(日本時間同日夜)、男が学生寮内と教室内で銃を乱射。同大のスティーガー学長は学生ら32人が死亡、15人が負傷し病院で手当てを受けたことを明らかにした。警察当局者によると容疑者の男は自殺した。
この事件についてはいろいろ書きたいことがあるのだが、どうも一つの形になりにくい。
と思っている間に、拳銃を使った事件があちらこちらで起きている。
発砲:射殺事件後ろう城の組員を逮捕 頭撃ち重体…町田
神奈川県相模原市で20日午前、指定暴力団極東会系金原組組員、横山円(まどか)組員(37)が拳銃で撃たれ死亡した事件で、警視庁は21日午前3時すぎ、東京都町田市のアパート1階の自宅に立てこもっていた同組組員、竹下祐司容疑者(36)の身柄を確保するため突入した。警視庁がせん光弾を使うなどして玄関ドアから入り、竹下容疑者は顔面血だらけで見つかった。拳銃で頭を撃ったとみられ、意識不明の重体、病院に搬送された。町田署は同日午前4時45分、竹下容疑者を銃刀法違反(拳銃所持)の疑いで逮捕したと発表した。
NASAで拳銃男が立てこもり、同僚を殺害し自殺
【ロサンゼルス=古沢由紀子】米テキサス州ヒューストンにある米航空宇宙局(NASA)ジョンソン宇宙センターで20日午後1時40分(日本時間21日午前3時40)ごろ、男がNASAの男性職員を拳銃で射殺し、建物内に立てこもった。
男は同センターの契約企業の女性社員を人質にとったが、約3時間半後に頭を撃って自殺した。女性は手足を縛られていたが無事だった。
なんとなく共通するところもある。
事件の構図や、自殺を図ったりするところなどは拳銃を使った事件としては「ありふれている」のかもしれない。
しかし、こう続けて起こるというのは不思議なものである。「笑い男」?
これらの事件をみて改めて実感するのは、「人は簡単に殺せるし、人は簡単に死ぬ」という非常に当たり前のことである。
人の生命は別に何にも守られていない。
拳銃というのはそういう事実をはっきりと提示してしまう。
おそらく拳銃というものは、人を殺す(自分を含め)心理的ハードルをかなり下げてしまうと共に、ある種の万能感・優越感を持たせてしまうのかもしれない。
自分はすごい人間だという錯覚をその使用者に与えてしまうと言い換えてもいい。
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こういった事件を起こさないようにするには、拳銃が世界中から消えてしまえばよい、というのは非常に簡単な理屈ではある。しかし、それは世界中から核兵器を無くすことよりも難しいことであろう。
となれば、いかに管理するか、という制度の問題、あるいはそれを使う人間の心の問題へと移っていってしまう。
そしてそれらは一筋縄ではいかない問題である。
日本では普通に生活する人が拳銃に触れる機会は少ない(というかほとんど無い)。警察官か、暴力団、あるいはその関連の人々というところにある程度限られている。
今後格差が広がっていくと予想される社会では、当然のように治安の悪化ということは想定されることである。なんとなくじわじわとこういう拳銃の問題も日本で出てくるのではないかと思う。
絶望に陥った、あるいは希望を見失った人間が、拳銃という武器を手にすることにより、心の闇を現実にブレークするトリガーを引いてしまう。
それを、ただ気のふれた人間の凶行として片付けていってしまってよいのだろうか。
日本の二つの事件は、一応暴力団というものが背景になっている。
バージニア工科大のほうはそうではない。一人の学生である。
彼が、学校内で孤独であったことは報道されているし、カウンセリングの必要性も回りの人間は認識していたようである。しかしながら、カウンセリングは受ける側の人間が心理的に受け入れる状態で無いとあまり意味を成さないことが多い。
子どもの頃から蓄積されてきた闇の部分が、何かをきっかけに彼の中で形を作ってしまったのだろう。
そういった心の闇というのは、多くの人間が暮らす社会においてある程度の割合存在してしまうものである。
皆が仲良く手をつないで暮らせる社会というのは、完全に夢物語である。あるいは極端に小規模で閉じたな社会ならば実現できるかもしれない。しかしそうした社会そのものが存在することが難しくなりつつある。
社会をいくつかの機能を持った一つの組織としてみた場合、少数が抱える心の闇といったところまではフォローできないように思える。結局は個人の問題として捉え解決していかざるえない。例えば先のバージニア工科大の事件にしてみたところで、社会は彼に何をすることが出来ただろうか。そもそもの心の闇を抱えさせないというアプローチは出来方かもしれないが、抱えてしまったものについては「自己責任」で処理するしかない。
社会からはじかれた人間は、その社会を否定することで自己肯定をしがちである。それが最も簡単で、(その当人には)合理的に感じられるからであろう。
自分に何か問題があるのでは、自分を変えて環境に適応していこうというのは、非常な苦痛を伴うことが多い。それに比べれは社会を否定するのは簡単である。
そうして社会からはじかれた人間は、「狂気」に陥ってしまう。
先ほども述べたように、社会からはじかれる人間を作らないことも、はじかれた人間を個別にフォローしていくことも「社会」にはできない。原理的に出来ないか、コストがかかりすぎる。
一つの社会が、圧倒的な宗教によってまとめられていない限りは、どうしてもはじかれる人間というものは出てきてしまう。
つまり、「狂人」というのは社会が抱えるリスクの一つであるといってもいいのではないだろうか。だから、「狂人」がしたことだからと、切り捨ててしまうのは少し現実を見てみぬふりをしていることになる。そういった「狂人」は、いつか繰り返し出てきてしまうのだ。
では、そのリスクをいかにしてコントロールしていくのか。結局議論の行き着くところはそこになる。武器の管理、モラルの植え付け、そういう非常に基本的なことにならざる得ないだろう。
今日本社会においては、拳銃というのは特殊なものである。しか