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脱出口としての戦争

福島母殺害:「戦争起これば人殺せる」少年が供述

福島県会津若松市で高校3年の少年(17)が母親(47)を殺害した事件で、少年が、県警の調べに「戦争が起これば人を殺せるのに、戦争が起きないから、いま人を殺してしまおうと思った」と供述していることが分かった。一方、母親を布団に寝た状態で殺害した後、そのまま移動させずに体の一部を切断したため、アパートの部屋は布団以外にほとんど血痕が残っていなかったことも判明した。少年は自首した際、両手に負傷しており、県警は殺害時か遺体の切断作業でけがをした可能性もあるとみている。

もちろんこんなものは子供のたわごとである。自分の行動に自分で責任がとれないような人間がよくいう言い訳に論理的には似ている。
彼を擁護するような気持ちはまったく起きない。

しかし、この「戦争が起これば人を殺せるのに、戦争が起きないから、いま人を殺してしまおうと思った」という言葉にはなぜか哲学的な響きを感じてしまう。
よいとか悪いというのを超えて、ある種の「戦争」がもつ力というのを感じてしまうのかもしれない。

ひとつには、殺人が正当化される異常な環境。正当化というよりもむしろ推奨されると言ったほうがいいかもしれない。そこで広げられる論理は日常生活とはまったく逆のものであるかもしれない。もちろん、自分(たち)の命>敵の命というひとつの不等式から導き出される論理であり、「命の大切さ」は変わらないものの「すべての命の大切さ」というものは失われてしまっている。

もうひとつは、戦争がもたらす一体感がある。軍隊というのは行動をともにする仲間であり、その中で、人間はひとつの役割を与えられ、自分の居場所を得る。また、戦争というのは国が一丸とならざるえない状況を作る。
この二つはよくよく考えれば今の日本にかけているものだ。うしなってしまった、と言い換えてもいいかもしれない。

この少年の発言はこういったものへの「憧れ」が含まれているのかもしれない。
ただ、人を殺したいというよりは、戦争という状況が含む日常生活と異なった、そして今の日本が持ち合わせていない感覚を得たいと思っているのかも知れない。

もちろん、この少年が行ったのはそういう政治的な思想を含んだものではない。
自分の感情をコントロールできていない人間の犯した犯罪である。

ただ、どこにもいけない感覚を持った少年たちがこの日本にはすくなからずいるのかも知れない。
その閉塞された社会の変革を願い、ときとして危うい思想にはまってしまうことも十分ありえるだろう。

もしかしたら、もはや政府にこういった事態を改善しうる力はないのかもしれない。
欠けてしまったものを補うのは、政府の施策ではないのだろう。しかし、ほかの誰かがそういったものを埋めていかなければいけない。
ただ、今の時代の大人は他人にかまっているような余裕も無いのかもしれない。
そうして、そういう子供が、また余裕の無い大人になっていく。
悪循環。
こういった循環から抜け出る方法が、戦争でないことだけは願っている。

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