運命があろうと、なかろうと

人生の捉え方として、運命論的な方性と、そうでない方向があります。

この世に起きる出来事はすべて決まっている。私たちが何をしてもそれを変えることはできない__それが運命論(Fatalism)です。対して、何も決まってなどいない、私たちの意図や行動でそれらを変えることができる、という考え方もありえるでしょう。何論と呼ぶのかは知りませんが。

このどちら側で人生を捉えているかによって、生きる態度みたいなものもやっぱり変わってくるでしょう。

で、これってどちらが正しいのでしょうか。

いかなる検証を

ごくシンプルに考えれば、どちらが正しいのかを知るすべはありません。出来事が決まっているかどうかは、少なくとも人生を二度以上繰り返さないと判断できないからです。

それが魔法によるものなのか、科学技術によるものなのかは別にして、ある時点から過去に戻り、行動を変えるなりなんなりしても、やっぱり同じ結末だった、ということがわかってはじめて運命論を「確からしい」と受け入れることができます。

が、現在にはそういう技術は(たぶん)ありません。だから判断しようもありません。

これは「運命なんかない」と主張しているわけではありません。どちらが正しいのか(あるいはどちらも正しくないのか)を決められない、というだけの話です。決定不能なのです。

その決定不能を前提に、話を一歩前に進めましょう。私たちはどう振る舞うのが「合理的」なのでしょうか。

世界の期待値

パスカルの賭け」を拝借します。

まず、「運命はある」(世界A)と「運命はない」(世界B)の二つの可能性に絞ります。前者は何をしても決まっていることは変えられませんが、後者は変えられます。

そして、私たちは生きている間にそのどちらが正しいのかを知るすべはない。だとしたら、期待値的に考えてみるのがよいでしょう。

世界Aは、どのようなことをしても意味がありません。何をしても出力は一定。
世界Bは、行動に応じて世界がその振る舞いを変えます。出力は可変。

そうすると、私たちが取るべき行動は「すこしでも良くなるように動く」ことでしょう。

仮にそのような行動を取っても、世界Aでは何も起こりません。アタリの入っていないクジを引いても、アタリが出てくるはずもありません。でも、悪くもなり得ません。何をしても結果は同じなのです。

もちろん世界Bでは、世界に変化が訪れます。少しだけ良い結果が得られるのです。よかったよかった。

もし、「何をしても変わらないのだから、何もしない」態度であればどうなるでしょうか。

世界Aでは、相変わらず何も変わりません。
世界Bでも、何も変わりません。

さいごに

運命があるのかどうかが非決定的であるならば、私たちの合理的な行動は「結果を変えられるように動く」ことです。自分にできることをすることです。

もちろんそれは「必ず結果を変えられる」ことを保証してはくれません。もしかしたら世界Aなのかもしれませんからね。でも、世界Bだったときに、「しまった。あの時、あぁしておけば……」と思うのは避けたいところです。

もしかしたら、そういう後悔から心を守るために「運命」が見出されたのかもしれないな、なんて今思いました。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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