「明日やろう。うん、そうだ。明日ならできる」
これが別人問題の一つの立ち現れ方です。
明日の自分だって、今日の自分とほとんど変わらない存在でしょう。今日の夕方5時に疲れているなら、明日の夕方5時も疲れているはずです。だから、明日の自分にパスしたところで、状況は変わりません。明後日の自分にパスするだけです。
しかし、今日の時点からみると、明日の自分は余力たっぷりに思えてくるのです。
つまり、同じ人物であるにもかかわらず、あたかも別人のように捉えてしまうこと、これが別人問題です(※)。これはまさに日常茶飯事で、いろいろなところに見受けられます。
※別の人物であるのに、同じ人物として扱ってしまう、というのもあるでしょう。
では、それが回避される状況とはどのようなものでしょうか。
「明日にしようかな……。でも、明日の自分だって今日の自分と同じなんだから、今のうちにやっておくか」
少年漫画の主人公のように素晴らしい態度です。こういうのが出てきたら、サクサク仕事が進みますね(たぶん)。
こちらは、今日と明日の自分が同じ存在であることを認知しています。同人として扱っているのです。
視点の違い
ここで、視点に注目してみましょう。
別人問題が起きている状況は、明日の自分を漠然とイメージしています。明日の自分だけをイメージしているのです。
「別人」という言葉の語感から少し外れますが、こちらは単一の視点しかありません。つまり、今日の自分がどういう状態であるのかが考慮されていないのです。
たとえば、本当に突発的なトラブルによって、今日にっちもさっちもいなかったとしたら、明日の自分ならなんとかこなせるでしょう。でも、結局日々のルーチンに追われていて時間がないだけなら、明日の自分でも同じことです。それがわからないと、本当のところ機能する「先送り」はできません。
では、別人問題が回避されている状況はどうでしょうか。
今日疲れているのだから、明日も同じように疲れているに違いない。
というのは、単一の視点に感じられますが、実際は今の自分の状況と、明日の自分の状況を比較するための俯瞰的な視点が持てています。単一ではないのです。
乱暴に言えば、メタ視点の有無が、こうした状況の回避に役立つのでしょう。
記録がつくるもの
では、どうやったらそうした視点を持てるのか。
これはもう、記録しかないかと感じます。
一日の行動記録を付ける。
それを一週間でも繰り返せば、いやがおうでも「毎日は似たようなことの繰り返し」であることに気付かされます。明日に幻想を抱くことができなくなるのです。
何も記録を付けなければ、「今日の自分」の状況は頭の中からあっという間に消えてきます。都合の悪い部分は優先的に。だからこそ、明日の自分に過大な期待を寄せられるのです。
さいごに
しかしながら、記録を付けることが100%ピュアに善なるものなのかは、立ち止まって考えたいところです。
脳が都合の悪いことを忘れてしまうのは、やはりそれなりに意味があるのでしょう。それを強制的に想起させることで、何かが壊れてしまう可能性もあります。
ただ、何かについて知らないよりは、__結果的に傷ついたとしても__知っている状態の方が良い、という考え方もあります。
なかなか難しいところです。
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