5月6日に開催された梅棹忠夫と21世紀の「知的生産の技術」シンポジウムに参加してきました。
ご来場頂いた皆様、ありがとうございます。
「知的生産の技術」をテーマにしたシンポジウムだったのですから、その参加体験をもとに「知的生産」してみたいところですね。なんだって構いません。あなた自身が面白いとおもったこと、可能性を感じたこと、不思議におもったこと、ツッコミたかったこと……それらをひとにわかるかたちで提出すればよいのです。
ブログでも、ツイッターでも、Faceobookページへの書き込みだって、アウトプットの一つです。自分自身は何気なく書いたことでも、主催者やその他の参加者にとっては新しい情報となるかもしれません。書いてみて、損することはほとんどないので、ぜひともチャレンジしてみてください。
Session.1〜Session.4まで、多用な内容が語られていたので、何かしら頭の中に「!」や「?」を思いついたことでしょう。もし、まったく浮かばなかったとしたら、なぜ浮かばなかったのか、というところが一つの視点になるかもしれません。
私が会場に行って、まず感じたのは男女比についてです。参加者の男女比は5:5に近いぐらいでしたが、登壇者はほとんどが男性。ある程度は仕方ないのかもしれませんが、21世紀の「知的生産の技術」を考えるならば、もう少しバランスがあってもよかったかもしれません。
が、それはそれとして登壇者の方々の話は本当に面白かったわけですが。
「人は最高のメディアである」
怒濤のようなSession.1〜Session.4を浴びた後、懇親会でほっこりしていたら突然
「人って最高のメディアだよな〜」
という思いが湧いてきました。
これがどれほど正確な表現なのかは検証不足ですが、今のところこう表現するしかないような気がしています。で、この話はそれぞれのセッションで語られていたことと微妙に通じ合っています。
「人は最高のメディアである」という感覚のトリガーになったのは、Session.4のモデレーターを担当していただいた、まつもとあつしさんにお会いして、「うん、この人の本を読んでみよう」と思った瞬間です。私は、自分自身のその心理的な変化を面白く感じました。
その瞬間、私の中にある「この人は、面白そうな人」が「この人は、面白い人」に変わっていたのです。
会の当日までに__せっかくお会いするのですから__、何か一冊だけでも読んでおこうかと思って、Amazonを検索まではしていました。でも、結局購入までにはいたらず(すいません)。しかし、シンポジウムの帰りの電車の中で、『LINE なぜ若者たちは無料通話&メールに飛びついたのか?』を購入し、そのまま帰宅までKindleアプリで読んでいました。
私の中の何かを変える出来事が、シンポジウムの中で起きていたのです。
基本的に私はあまり遠慮のない性格をしているので、まつもとさんに直接そう言いました。「お会いして、まつもとさんの本を読みたくなりました」と。不思議なことに、そのしばらく後に小長谷さんから同じことを(私が)言われました。「ご本を読んでみたくなりました」と。
そういうことは特別なことではなく、ありふれた__もっともありふれたことなのかもしれません。
人とメディアと
何かに接することで、行動や考えが変わる。
だとすれば、その「何か」はメディア的な機能を持っていたと推定できます。
すると、上のような現象をメディアとして捉えるならば、リアルな肉体とそこから生み出される言動が「メディア」であったと言えるでしょう。
普通、メディアは
[送信] [メッセージ] [受信]
人 → メディア → 人
のような構図で理解されます。特に難しいことはありませんね。
送信者がいて、受信者がいる。メディア(中間)は、その間をつなぐものであり、貨物車のようにそこにはメッセージが載せられている。一般的に、メディア論では「メディア」がどうであるのか、が注目されています。逆に言えば、「人」は自明のものとして扱われているのです。
でも、この「人」ってなんでしょうか。
人 → メディア → 人
私がリアルで誰かと向き合って話すとき、そこには言語以外のメディアは存在しないのでしょうか。
人 → 話し言葉 → 人 ?
もちろん、そんなことはありません。非言語的コミュニケーションがあります。でも、どこまでが非言語的コミュニケーションなのでしょうか。
別のパターンで考えてみましょう。
私にそっくりなアンドロイドがあり、私がそれを遠隔操作できるとします。石黒教授のあれを思い浮かべてください。そのアンドロイドと直接向き合っているときと、私の生身と直接向き合っているとき、これはまったく「同じ」と言えるのでしょうか。
その答えが「同じ」にせよ「違う」にせよ、なかなかやっかいな問題が潜んでいそうです。
人に残されるもの
肉体を「メディア」として捉えるのは、どこかおぞましい感覚があるかもしれません。でも、それがいくらでも代替可能であったり、著しい強化、あるいは変更可能である時代がくれば、それほど極端な話ではなくなるでしょう。
※そもそも化粧したり髪型を整えるのも、メディア的行為ではあります。
そういう時代になったときに、
人 → メディア → 人
の構図で表される「人」が一体何を(あるいはどこまでを)指すことになるのか。それは興味深い問題です。
と共に、そこで指される「人」こそが、シンポジウムの中で何度も登場していた「個人のセンス」というものにかなりの部分重なってくるだろうことは容易に推測できます。
さいごに
一応補足しておきますが、私は「肉体という束縛を捨てよ!」的思想に傾倒しているわけではありません。
むしろ極端なことを言えば、その逆です。
肉体をメディアとして捉えるならば、「人」(攻殻機動隊で言うところのゴースト)は、肉体を通じて他の人にメッセージを送っています。メディアを作用させているのです。
そして、作用あるところには反作用があります。フィードバックが返ってくるのです。それは何かを強化し、何かを弱化させます。他人だけではなく自分の「人」たる部分にも影響を与えるのです。
つまり、「肉体が最高!」という話でもなく、それがなければ醸成されないものがあるだろうと考えているわけです。
・駅に向かう途中、たまたま見かけた知り合いに挨拶する
・ツイッターで「おはようございます」とツイートする
・ゴーグルを付けて感覚操作でドローンを動かしていたら、たまたま同じ会社のドローンとすれ違ったのでランプで合図を送る
どれもコミュニケーションという点では同じなのかもしれませんが、「人」へのフィードバックが同じとは思えません。
もちろん私が思えないだけであって、実際脳をスキャンしたら同じだった、ということはあるのかもしれませんが。
と、ここまで書いてきて「知的生産の技術」とは、ほとんど関係ないことに気がつきました。それっぽい話は明日書きます。
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