スパルタ式とアテナイ式

スパルタですね、と言われることがある。私の書籍に関する感想だ。

おそらく「厳しい」とか「ストイック」いった文脈なのだろう。たしかに、「この簡単な方法さえやっていれば、あなたの人生はバラ色です」みたいなことは書かない。本の売り上げが10倍になるにしても、嘘は書きたくないのだ。

なので、私の書く本は「階段の存在と一段目の登り方は教えますけど、あとは自分の足で昇っていってくださいね」といったテイストになる。

そのテイストは、バラ色本と対比すれば厳しかったり、ストイックだったりするのだろう。だからスパルタなわけだ。

スパルタなるもの

そういえば、私は子どものころ「スパルタさん」なる人がいると思っていた。すごーく怖いおじさんだ。あるいは細いメガネをかけた(もちろんチェーン付きの)面長な年長の女性かもしれない。ともかく、そういう厳しい人の教育方針を「スパルタ教育」と呼んでいると思い込んでいた。

しかし、実際は違う。スパルタは古代ギリシア時代に存在したドーリス人による都市国家(ポリス)の名前である。ウィキペディアによると、ペロポネソス半島南部スパルティにあったらしい。この国の軍事的教育制度が、厳格で過酷な訓練を施すことが特徴であったため「スパルタ式」「スパルタ教育」といったフレーズが生まれることになった。

そこで、私は疑問に思うわけだ。同じ時代に存在した他の都市国家__たとえばアテナイ__の教育制度はどのようなものであったのか。言い換えれば、「アテナイ教育」なるものとはどのようなものか、と。

ソクラテスが語るアテナイ人のスタイル

私がアテナイと聞いて真っ先に思い浮かぶのはソクラテスである。

デイヴィッド・ドイッチュの大著『無限の始まり』には、そのソクラテスが登場する。第10章「ソクラテスの見た夢」ではソクラテスとヘルメスの対話が__プラトンの著書のように__描かれており、その中でスパルタとアテナイの教育方針の違いも語られている。

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神たるヘルメスは、ソクラテスに対し「大方のアテナイ人が合意する論点に、スパルタ人が合意しないのはなぜか」と問う。ソクラテスは、最初「それは、スパルタ人が誤った信念や価値観を幼きころより学ぶから」と答える。しかし、ヘルメスは問い返す。「では、アテナイ人は誤りなき教育をいつから受けるのか?」と。

もちろんこの問いには含みがある。「誤りなき教育なんて、存在するのかい?」というわけだ。

聡明なソクラテスはその含みに気がつき、二つの都市国家の違いをより鮮明に理解していく。

ソクラテス:またもや誤りを見つけられてしまいました。そのとおり、われらアテナイ人もわれらの価値観を子弟に教えており、そこにはきわめて深刻な思い違いも実に深遠な智恵も含まれているはず。ですが、われわれの価値観には考えを広く求めること、意見の相違を許すこと、そして異説と定説の双方に批判的になることが含まれています。したがって思うに、スパルタ人がわれらとまことに異なる点は、自分たちの道徳教育に命じられて自らの最も大切な観念を批判から遠ざけていること。(後略)

アテナイ人のスタイルをピックアップしてみよう。

  • 考えを広く求めること
  • 意見の相違を許すこと
  • 異説と定説の双方に批判的になること

そして、スパルタはこの逆だというわけだ。

考えてみれば当たり前だろう。強い軍隊を求めるための訓練に上のような考え方は必要ない。むしろ邪魔だろう。出兵する兵隊が「軍隊にとって大切なものはなんだろう?」などと上官と議論していては勝てる戦(いくさ)すら落としてしまう。たったひとつの命題を疑うことなく受け入れる。そういう価値観のほうがコントロールしやすい。少なくとも、そう考える人間は多いはずだ。

ただし、強力な軍隊を作れる教育方針が、そのまま成熟した都市国家を作れる教育方針とはならない。

人間は過ちを犯す存在だ。ルールを決めるときでも、誰かに投票するときでも、人を裁くときでも、間違いは存在しうる。10人の大賢者を集めても、全人口の総意を募っても、その誤謬性は消えない。

だから何かを決定するときには、「これが間違っているかもしれない」という可能性を常に持っている必要がある。そして、決定を下した後でも、「やっぱり間違っていたんで、改めて考えてみましょう」という態度をとれる必要がある。でなければ、自らの命題に縛られ、やがて停滞してしまう。

もともとあった説が、あの人の意見が、自分の考えが、……

ありとあらゆるものが間違いを含んでいる可能性を検討し、より良い考えを求めて議論し続けること。

それがアテナイのスタイルだ。

さて、スパルタ式とアテナイ式。どちらが、<厳しい>だろうか。

さいごに

そう考えると、私の書籍は「アテナイ式」な気がする。まあ、気がするだけで、案外「スパルタ式」なのかもしれないが。

ただ本が<閉じない>ようにだけは気をつけている。本は、読者を縛り付けるために存在しているわけではないのだから。

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