「タスク」の研究

タスクリストの「鮮度」について

次の写真をご覧いただきたい。

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「私」のタスクリストだ。

さて、どのような気持ちが湧いてきただろか。

「さっそく、ここに書かれているタスクを実行しよう!」

そんな風に思えただろうか。まさか。なんといっても、これは「私」のタスクリストだ。あなたには関係のない事柄の列挙である。だから、形式としてタスクリストであることは理解できても、これをタスクリストだと感じることはない。

「私」のタスクリストは、あなたのタスクリストではない。ここにあるのは文字の羅列でしかない。

あたりまえ?

じゃあ、もう一歩前に進んでみよう。

「私」の断絶

よく言われることがある。

「明日の私は他人」

こんな言説だ。

もちろんアイデンティティの倒錯が起こっているわけではない。簡単に言えば、記憶がうまく引き継がれていない、ということだ。特に、時間が経てば経つほど、この「他人具合」は大きくなっていく。記憶だけではなく、それに付随する感情もまた、徐々に今の私からは遠い存在となる。

別に極端な話ではないだろう。日常的によく見られる風景だ。

私などは、広いスーパーのこれまた広い駐車場に車を止めて買い物に行ったとき、15分ほどして帰ってくると、どこに車を止めたのかがまったく思い出せないときがある。15分前の私はもはや別人に近しい存在なのだ。

とりあえず、時間が経つと記憶や感情が少しずつ薄れていく、という意味合いにおいて「明日の私は他人」という言説を受け入れるとしよう。

すると、今日作ったタスクリストは、一日経つと別の人のタスクリストになってしまう。

これでやる気が出たら、驚くべきことである。むしろ、異常かもしれない。だってそれは、冒頭に提示した私のタスクリストを見て、あなたがそこに書かれているタスクに対してやる気を起こすようなものだからだ。

といっても、人間はそんなに極端に「別の人」にはなったりしない。月が欠けるように、徐々に変わっていくのだ。つまり、タスクリストの効能は、少しずつ小さくなっていく。でも、どれだけ少しずつであっても、それは確実に減少していく類のものなのだ。

だから、できれば週に一回レビューを行った方がよいし、その日のタスクリストはその日(あるいは前日の夜)に作った方がよい。タスクリストの鮮度を保つのだ。

「私」のタスクリストを作る

『アリスの物語』の冒頭で、マスターとアリスがタスクリストの作成にいそしんでいる。

あんな工程がなくても、システムが自動的に作ってくれればいいんじゃない、と感じる人がいるかもしれない。でも、たぶん、そのタスクリストは私にとって「他人のタスクリスト」にしか思えないと思う。それでは、作業をやる気持ちが湧いてこない。いくら形式的に美しく、能率的であっても、タスクリストというのは、それを見た私がやる気を起こす(あるいは実際に行動をとる)ものでないと意味がない。

だから、リストの作成にコミットメントし、フィードバックを機能させている。「私のタスクリスト」を作るために。

さいごに

書かれた文字列を見て、「そうだ、これは私のタスクだ。私がやらなければいけない」と思うことは、真理との接触によってもたらされたものではなく、たんに脳の機能である。何を「自分のもの」と感じるか、その線引きの話に過ぎない。

どれほど一年前に強くミッションを感じていても、今の自分がそれを感じられないのなら、そのタスクを実行しようという気持ちにはならない。ごくごく当たり前の話だが、タスクリストを運用しているとつい、全ての日の自分が同じ存在であるかのように考えてしまう。あげくのはてに、できない自分の方を責めてしまう。

実行する気持ちにならなくて、当然なのだ。気にする必要はない。

そういうときは、一度足を止めて、あらためて「今の自分ができること、なすべきことは何か」を考え直すとよい。そこから「私のタスクリスト」というのは生まれてくる。

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