月刊群雛2014年8月の『「月刊群雛」への応援歌』の中で、池田敬二さんが以下のように書かれている。
まさに賽は投げられた。(中略)あとはもう自らの表現の場で力いっぱい暴れ回るだけだ。もう言い訳などできない。表現したいのなら、表現し続ければいい。
月刊群雛 2014年08月号 |
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とても力強く、一面では残酷な言葉である。でも、たしかにそれが現実だ。
すでに舞台は整えられている。逃げるための言い訳は、もうほとんど機能しない。書き続けるかどうか。ほんとうに、それだけなのだ。
その先がどうなるかは誰もわからない。こぢんまりと読者とつながり、密度の濃いコミュニティーの中で創作活動を続けることになるかもしれない。誰かの目に留まり、舞台が移り変わるかもしれない。先日紹介した「ミライショウセツ」のような大賞もある。あるいは、新潮nex大賞みたいなものもある。
〈再掲「新潮nex大賞」とは!〉インターネット上に発表されている小説を対象とした新人賞です。選考対象は、商業化されていない小説作品。公募型新人賞ではありません。ネットに発表されている小説を僕らが選び、読み、これだ!と思った時、突然連絡がいきます。「貴方の作品を本にしませんか」と。
— 新潮文庫nex (@shinchobunkonex) 2014, 8月 6
このブログで何度も書いていることではあるが、価値とは見出されるものだ。内在する何かの絶対的な指標ではない。誰かが価値があると思えば、そこに価値が生まれるのだ。
だから、自分の書いたものが、戦闘力53万クラスの作品だと自分で考えていても、誰の目にも留まらなければそれは0に等しい。あるいは、目に留まっても受け入れてもらえない場合でも同じ。
でも逆に、自分が15ぐらいの価値だと考えているものでも、誰かがそれを100万だと感じることだってある。人生何が起こるかわからない。
自分が感じている作品の価値は、周りの評価とイコールではない。でも、それは悲観的なことばかりではなく、素晴らしい出来事にだってなり得る。しかし、それはシュレディンガーの猫である。箱を空けてみないと、どちらかはわからないのだ。
だからもう、四の五の言わずに表現し続ければいい。
私は一攫千金を謳わない。そんな戯れ言はどうでもいい。ただ、「価値とは見出されるものだ」という一文さえあれば、十分に事足りる。見出されるためには、見出されやすい場所に出なければいけない。そして、そういう場所はもういろいろとあるのだ。
感想の効果
これを踏まえて、逆の視点から見てみよう。つまり、クリエーターではなくその作品を楽しむ人だ。
一つ、個人的に大切だと考えていることは、何かを読んで面白かったら、「面白かったです」とそのクリエーターに伝えることだ。別にたいした手間ではない。ツイートなら1分もかからない。メールだって5分ほどで書けるだろう。
クリエートを始めたばかりの人にとってその声は、ほんとうにほんとうにありがたいものだ。これは誇張でも何でもない。ちなみに、それなりに冊数の本を書いている私だって、「面白かったです」と言われれば、MPが8割ほど回復する。冗談ではなくマジな話だ。
以前何かの動画で、屋外で踊り狂っている人の映像を見た。その人は最初ひとりで踊っていたのだが、それに続く人が現れると、次々に周りの人が参加し、やがてその場全体が踊り始めた。最初に行動を始めた当人ではなく、それを最初にフォローし始めた人がムーブメントを作る、みたいな話だったように思う。
双方向な交流が可能な現代では、情報を受け取る人は、単なる情報の消費者ではない。それはフォロワーとして、クリエートに参加(あるいは貢献)する人なのだ。
対照的な存在とマナー
それはつまり、逆に言うと、クリエートを攻撃できる人でもある。
これから世に出てくるたくさんのクリエートする人たちは、やっぱり攻撃にも晒されてしまう。好意だけを受け取るチャネル、とうのはありえない。だから、そうした攻撃に対する耐性みたいなものは持っておいた方がよい。心構えでもいい。残念ながら、「いや〜、大変でしたね」みたいに慰めてくれる編集者はいないのだから、自衛は必要である。
でも、そうしたクリエーターの在り方とはまた別に、受け取り手としても、ある種のマナーは持っておいた方がよいかもしれない。つまり、面白いものは面白いとなるべく言う。問題点の指摘は良いが、攻撃にならないようにする、といったことだ。これはマナーなので、強制するルールではない。でも、そういうマナーがあった方が、長期的に見て面白い作品の数が増えることはあるように思える。
人間が生み出すものなのだから、何かしら欠点はあるだろう。熟練していないのだから、問題点もあるに違いない。そうした指摘は有益ではあるが、それだけではマインドが縮こまってしまう。気むずかしい部長がいる会議みたいに。
もちろんどこを探しても長所が見当たらないのならば話は別だが、そうでなければなるべくその作品の良いところを取り上げてあげた方が、クリエーターにとっては有益かもしれない。特に、フォロワーが少ない初期のクリエーターにとっては。
つまり、作品批評ではなく、ブレスト的に捉えるわけだ。
さいごに
しかしながら、「攻撃的に批判しない」とか「長所を取り上げる」というのは、存外に難しい。
コンビニ店長の経験から言ってもそうである。人を怒らずに注意するのは難しいし、褒めるのも簡単なことではない。というか、簡単に褒めてもあまり効果はない。むしろ、逆効果なこともある。
適切に褒めるには、その人をきっちり観察しなければいけない。丹念にチェックしなければならない。
作品の長所を見出すのも、それと同じような行為が必要であろう。おそらく、たくさんの作品に触れている人ほど、そうした行為はやりやすいのではないだろうかと思う。
が、そこまで難しいことを考えなくても、作品が面白かったら「面白かったです」とメッセージを送るだけでも十分ではある。そのためには、クリエーターはメールアドレスやTwitterアカウントなどのチャネルを開いておく必要がある、ということは留意しておきたいところだ。
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