以下の記事を読みました。
アンドロイドはアウトライナーの夢をみるか?[Sall Talk](るうマニアSIDE-B)
私たちの「思考」とアウトライナーの関係性について考察されています。
面白そうなので、私も考えてみましょう。
脳内に生まれるもの
なので,その考えにいろいろ理屈づけようとしたときに,「生活すべて」とまではいかなくても.少なくとも「思考システム」はアウトライナーと相補作用があるのかも,と思った.そしてそれは,アウトライナーのもつ「方向性」と「単一性」のためなのかもしれない.
まず、「生活すべて」ではなく、「思考システム」に限定してあるのがポイントでしょう。この視点は大切です。思考というのは、人の意識の大部分を占めるように感じますが、実際は違います。全体からすれば、ほんの一部分でしかない、といっても言いすぎではないでしょう。
たとえば、思考と感情は違います。これはもう明確に違います。で、感情をアウトライナーで扱えるか。
これはノーです。むしろ、感情を表現することすら難しいかもしれません。できるのは感情を言葉に落とし込んだものを、アウトラインの項目として入力することぐらいです。感情そのものと、感情を言葉に落とし込んだものは、正確にはイコールではありません。それは想像や共感という橋によって、ようやく結びつくものです。その橋が不良品なら、途中で落ちてしまうでしょう。
私たちは、誰かが好きであると同時に、その人が嫌いという感情をわりと頻繁に持ちます。でもそれを、
私はあの人が好きである。私はあの人が嫌いである。
と書いても、あまり意味はありません。
私はあの人が好きであると共に、嫌いである。
書いても同じです。言語的表現をするならば、「私はあの人が好きである」と「私はあの人が嫌いである」という文字を重ねて表示し、さらにそれぞれのフォントサイズを感情の強さによって変更する必要があるでしょう。言葉の限界を、なんらかの補助を使って乗り越えるしかないのです。もちろん、アウトライナーでそんなことはできませんし、できる必要もありません。
これは感情が不完全で不十分だ、ということではありません。言葉が持つ限界性がそこにあるだけの話です。
脱線が過ぎました。
ともかく「思考システム」(あるいは「思考プロセス」)に限定して、話を進めていきましょう。
意識と時間
なぜなら,人(と思想)というファクターが入り込んだ瞬間に,「時間軸」という要素が切っても切れなくなるから.思考の変遷は,ちょうどTwitterのタイムラインと同じように,常に一定方向に流れていくものなのだ.望む望まざるに拘わらず.
ここで「時間とは何か」という問いが立ち上がってきます。もちろん、物理量として何かしらの定義を与えることはできるのでしょうが、ここに出てくる時間はそれではありません。
ここで言う「時間」とは、意識が流れていく方向のことです。
つまり「時間の流れ」という絶対的なものがあり、私たちがそれを認識しているのではなく、私たちの認知の仕組みに沿って、「時間」なるものが知覚されている、ということです。
だから、私たちの意識と時間は切っても切れません。というか、それは同じものを反対から見ているだけなのです。
その視点に立てば、時間軸と同じコンセプトを持つものは、意識と親和性があることになります。だから、意識が扱いやすいわけです。
マインドマップとアウトライナー
これは,似て非なるものであるマインドマップとの対比を考えると自分にはしっくりいく.同じように自由にみえるアウトライナーとマインドマップの決定的な違いは,アウトライナーには,「いつでも一定の流れがある」ということだと思う.
アウトライナーは、「上から下」という流れが確保されています。アフォーダンスがある、と言ってもよいでしょう。
しかし、マインドマップでは、それが弱まります。一般的には時計回りに要素を見ていくことになるでしょうが、それは強い縛りではありません。アフォーダンスにはなっていません。むしろ、それぞれのノードが目に入るのは「流れ」というよりも「俯瞰」の方が近いでしょう。これはマンダラートでも同じことが言えます。階層という流れはあるものの、一つの階層に含まれる要素は「流れ」よりも「俯瞰」に近いものです。
しかし、このことがマインドマップの特徴をも生んでいます。
私たちの思考には流れがあります。マインドマップに書き込んでいくときも、必ず一つ書いて次、もう一つ書いて次と進んでいきます。でも、私たちの感覚(あるいは無意識から浮かび上がって意識にたどり着こうとしているもの)はシーケンスではありません。同時多発的な感覚も、頻繁に起こりえます。それを拾い上げるのがマインドマップという手法の機能です。
そしてもう一つの思考とアウトライナーの共通点は.「単一性」と簡単に書いてはみたが,つまり「人の思考はいちどにひとつの場所にしか立てない」という原則なのだと思う.
意識的な思考が、シーケンシャルなものであり、パラレルに走るものがないとすれば、「人の思考はいちどにひとつの場所にしか立てない」という指摘はまさにその通りでしょう。
ようするに「釣り竿で釣れる魚は一匹」なのです。でも、池には大量に魚がいます。だから、一匹一匹釣っていき、そばに並べていくわけです。もちろん、網を投げる方法もあります(マインドマップ)。しかし、意識的な思考においては、一定の流れを持ちパラレルに走るものがない方が扱いやすいでしょう。
さいごに
これらはあくまで「意識的な思考」についての言及です。
私は「考える」という言葉と「意識的な思考」という言葉を切り分けて扱っています。前者が指すものは広大であり、後者を内包するものです。だから、上記の話が「考える」にまで敷衍できるかどうかは、また別のお話になります。むしろ、私は無理があるだろうと「考えて」います。
上の「考えて」いるは、意識的な思考ではありません。そういう違いです。