執筆法

パラグラフ、トピック・センテンス、あるいは文というパーツ

『理科系の作文技術』という本がある。わかりやすい文章を書くための技術をまとめた良書だ。その本に「パラグラフ」という章がある。第四章だ。

理科系の作文技術 (中公新書 (624))
理科系の作文技術 (中公新書 (624)) 木下 是雄

中央公論新社 1981-01
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パラグラフとは、日本語で段落のこと。原稿用紙では、一文字分字下げされた冒頭から、次の改行までのひとまとまりが段落である。

Webでも原稿用紙と同じスタイルを用いているページもあるし、改行の代わりに空白行を入れる(その代わりに冒頭の字下げはしない)スタイルを使っているページもある。ちなみに、HTMLでよく使われる<P>タグは、Paragraphの頭文字を取っていて、その前後には強制的に改行が入る。つまり、意識していなくても、ウェブで文章を書いていればパラグラフはよく利用しているのだ。

パラグラフのルール

パラグラフは、ふつう複数の文で構成される。そして、そこには一定のルールがある、と『理科系の作文技術』では述べられている。

  1. パラグラフは、全体としてある一つのトピック(小主題)についてある一つのこと(考え)を言う
  2. パラフラグには、そのトピックを一口で言い表す文(トピック・センテンス)が含まれる
  3. パラグラフに含まれるその他の文は、トピック・センテンスを支援するか
  4. 他のパラグラフとのつながりを示すもののどちらかでなければならない

いささかややこしいだろうか。

ようするに、何か言いたいことがあり、それを表す一文がある。その一文を補強・展開していった文のひとかたまりがパラグラフになる、ということだ。

文がこういう形になっていれば、少なくとも読む方は理解しやすい。逆に言えば、この構造から外れてしまうと、読みにくさが出てきてしまう。

もちろん、これは説明文などの領域における話であり、文芸では通用しないことは注意されたい。

一つの例

パラグラムに含まれるトピック・センテンスとその他の文(展開部と呼ぶ)の関係性がどのようなものであるかを例示した一文を引いてみよう。

水泳は経験を積まないとこわい。私の家の近所には泳ぐのにいい場所がいろいろある。私は泳ぎは大好きだがまだ余りうまくない。私がよく行く池はとても深いので足が底にとどかない。深すぎるので心配になることがある。

どうだろうか。なんだかつかみづらい文章だったのではないだろうか。一つ一つの文の意味は汲み取れる。でも、全体として何が言いたいのかがわからない。たとえるなら、どこにもピントが合っていない写真をみているかのような感じ。

こうした印象は、文と文の接続が悪いせいで起きているわけではない。なるべくスムーズになるように文章を並び替えてみても、きっと印象は変わらないだろう。

水泳は経験を積まないとこわい。私は泳ぎは大好きだがまだ余りうまくない。私の家の近所には泳ぐのにいい場所がいろいろある。私がよく行く池はとても深いので足が底にとどかない。深すぎるので心配になることがある。

なにか言いたいことがあるのはわかるが、それがどれなのかがわからない。

もしかしたら、書き手の中でトピック・センテンスは「水泳は経験を積まないとこわい」なのかもしれない。しかし、その他の文がそれをうまく補強する形に機能していないので、読み手の印象としてはっきりそれが伝わってこないのだ。

上の文章は「水泳は経験を積まないとこわい」をトピック・センテンスとして書き換えることが可能だ。そのリライトの方法が本稿のテーマではないので、ここでは割愛する。興味がある方は文章を自分なりに書き換えて(自由に追記して)それを行ってみるとよいだろう。あるいは、「私がよく行く池が深すぎて心配になる」をトピック・センテンスにすることもできる。そのパターンでやってみてもよい。

その段落のトピックは?

ここからが本題である。

上で示したように、文章の書き換えは技術で対応できる。わかりやすく書くための技術だ。しかし、そのパラグラフで著者が何を言いたいのかは、著者にしかわからない。これは技術以前の話である。トピック・センテンスが何なのかは、書いている本人しかわからないのだ。
※だから、他の人の文章を手直しするのは非常な慎重さを要求される。

パラグラフ、あるいはトピック・センテンスの考え方は、ここが肝である。つまり、パラグラフを意識して文章を書くと、必然的に「ここで私が言いたいことは何なのだろうか」を問うことになる。その問いが文章を研ぐのだ。不要な文章が削られ、事例の強度不足が補われ、つなぎの関節部分が補強される。そうやって、読むに耐えうるパラグラフができあがっていく。

そして、それはフラクタルに拡張していく。

一冊の本は、複数の章から構成される。一つの章は、複数の節から。一つの節は、複数の項から。一つの項は、複数の段落から。一つの段落は、複数の文から。一つの文は、複数の単語から。

本を書くという行為には、再帰的なプロセスが含まれている。そして、それらを貫く一本の軸は「ここで私が言いたいことは何なのだろうか」という問いによって見出される。答えがあらかじめあるわけではない。常に問い続けることによって、見出されるのがその答えなのだ。

脱線的補足

パラグラフの考え方は、文をパラグラフ(が持つメッセージ)に従属させることだ。当然、そのパラグラフは項に従属し、項は節に……と、続いていく。最終的な視点では、本という全体像は、文という小さなパーツで構成されていることになる。だから、パラグラフ主義(とあえて呼ぼう)と、一つの文をパーツとして扱えるアウトライナーとは非常に相性が良い。

ふつうに文章を書いていると、ついつい文を固定化された「流れ」の一部として捉えてしまう。すると、削りにくいし、並び替えの発想も出てこない。アウトライナーでは、はじめからそれが操作可能な対象として扱われる。そのツールが持つアフォーダンス(と呼んでおこう)が持つ意義は大きい。

もし一度もアウトライナーを使ったことがない方は、ためしにそれで文章を書いてみるとよいだろう。一文一項スタイルにして作文すると、あたらしい感覚が得られるかもしれない。

さいごに

残念ながら、当ブログはパラグラフ主義では書かれていない。読みやすさで文を切ることは多々あるし、印象づけるために、一文だけのパラグラフ(本来御法度)もよく使う。

それでも、「ここで私が言いたいことは何なのだろうか」の問いは常に発している。だから、「読みにくくてしかたがない」ということにはなっていないはずだ(希望的観測)。

もちろん、2000字を超える文章なんて読んでられないよ、という方については、こちらからの処方箋はないので別のブログを読んでいただくしかない。

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