0-知的生産の技術

時間が経過してなお、残っているもの

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』という素敵な本があります。

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)
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その中で春樹さんは、「フィクション」についてこんなことを書かれています。

最近小説が力を失ったというようなことが巷間よく言われるわけですが、ここでも言っているように、僕は決してそうは思いません。小説以外のメディアが小説を越えているように見えるのは、それらのメディアの提供する情報の総量が、圧倒的に小説を越えているからじゃないかと僕は思っています。

たしかに小説に比べると、あたらしいメディアが持っている情報の量はとてもとても多いものです。

それから伝達のスピードが、小説なんかに比べたら、もうとんでもなく早いですね。

でもって、スピードも圧巻です。ちまちまページを読み進めていったり、空が赤みを帯びるまで本に没頭していたり、なんて必要はありません。ただぼーっと眺めているだけでも、ものすごく短時間で大量の情報が私たちの目に(あるいは脳に)入り込んできます。

だから、小説なんてメディアは時代遅れだ。そんな風に感じることもあるでしょう。

でも、本当にそうなのでしょうか。早く・多く・手軽なものが、常に善なのでしょうか。

でも僕は小説の本当の意味とメリットは、むしろその対応性の遅さと、情報量の少なさと、手工業的しんどさ(あるいはつたない個人的営為)にあると思うのです。それを保っている限り、小説は力を失わないのではあるまいか。時間が経過して、そのような大量の直接的な情報が潮が引くように引いて消えていったとき、あとに何が残っているかが初めてわかるのだと思います。

時間が経過してなお、残っているもの。

非常に残念ながら、それが何なのかは時間が経ってみないとわかりません。短期間では判断できないのです。そうしたものを評価するためには、時間的厚みを持った評価軸が必要です。でも、それはあたらしいメディアが持つ価値観とは相容れないのかもしれません。

私たちに押し寄せてくる圧倒的な情報の量は、言葉通り圧倒的であり、時間が経って何も残っていなくても次々に押し寄せてくる情報がそのことを意識の外へと押し流します。たとえ底に穴が空いていても、蛇口を開きっぱなしにしておけば、一見水は溜まるのです。

でも、何かの拍子に蛇口が閉じてしまったら。

さいごに

春樹さんが小説のメリットとして挙げられている「対応性の遅さと、情報量の少なさと、手工業的しんどさ(あるいはつたない個人的営為)」は、「読書すること」(読むこと)全般に敷衍できる要素も含まれているでしょう。

逆に、小説的なものが、こうした要素からどんどん遠ざかってしまっている傾向もどこかしらあるのかもしれません。

ブログというメディアは、どちらかというとあたらしいメディアに属するとは思うのですが、少なくとも自分のブログに関しては、「読むメディア」としての在り方を考えていきたいところです。

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