0-知的生産の技術

まっすぐではない読書道(みち)

先日公開された「ライフハックLiveshow #119」のテーマはアートでした。そこで、「アートの楽しみ方」の話題がチラリと出てきました。

その話を聞きながら、「本の読み方も近しいものがあるかもしれないな〜」と感じた次第です。

たとえば、「いろいろ試してみて、気に入ったものがあればそれをとことん掘り下げる」とかって、まさに本の読み方ですよね。

あと、展覧会はある程度の速度で一度回ってから、どうしても気になるところをもう一度じっくり見る、みたいな話も、一冊の本をまず読了してみて、気になった箇所を再読するというのとほとんど変わりありません。

たぶんですが、「自分の関心の掘り下げ方」には、共通のパターンがあるのでしょう。そういうアプローチでないと見つけにくい何かがあるわけです。

少なくともそれは、誰かが提示したものを順番に消化していけば、どこかの時点で必ず手に入れられる、というものではない、ぐらいなことは言えそうな気がします。だって、自分の心に触れられるのは、自分だけですからね。

読書道の歩き方

本の読み方って、決して一直線なものではありません。

それは一冊の本を行きつ戻りつしながら読む、というだけの話ではなく、本を読むという全体的な行為にも言える話です。

ある本を読む、別の本を読む、途中で挫折する、また別の本を読む、前の本に返る、やっぱり挫折する、別の本を読む、最初に読んだ本をもう一度読む、別の本を読む、挫折した本を読む、なんとか読める、別の本を読む、最初に読んだ本をもう一度読む……。

こんな感じで進んでいくのではないでしょうか。

どんな本を、どんな風に、どんな順番で、何度読むのか。そんなのはまったく自由です。自分に由るのです。

誰かが提示した教養書100冊を頭から順繰りに読んでいけば、教養スキルが手に入る、といったものとは全然違います。読書という行為はカリキュラムに落とし込むことはできません。それは恐ろしいほどに個人的な行為であり、個人的な行為であるからこそ意味を持ちます。

面白い本を誰かに教えてもらうのは全然構いませんが、「何を読むのか」を最終的に決めるのは自分自身です。その決定権を譲渡すると、たぶんあまり面白くなくなります。意味みたいなものも消失していくのかもしれません。

もちろん、決めるのが自分ということはその責任を負うのも自分です。選んだ本がつまらなかったら、「まーしゃーねーな」と腹に飲み込まなければいけません。誰かのせいにできないことは、多少のしんどさもあります。でも、面白さというのは多少のしんどさと隣り合わせです。ずっと無敵状態のアクションゲームなんて、二面ぐらいで飽きてしまうでしょう。

あるものを手にするとき、別のものも同時に手にすることになる、ということはよくあります。別のものを手放そうとすると、一緒に掴んだものも手からこぼれ落ちていきます。

さいごに

が、それはそれとして、たぶん読書道(みち)の歩き方には、いくつかのポイントはありそうです。

  • 良い本には何度も触れること
  • 新しい話題に関心を開いておくこと
  • ノイズをゼロにしないこと

もう一点、「自分の読書の趣味を決して他人に押しつけないこと」を加えておいてもよいでしょう。なにせ読書は個人的な行為なのですから。

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