6-エッセイ

境界線を渡り歩き続ける人

中心と辺境というものを考えてみよう。

丸い地図を描き、中心とその辺境部分をイメージしてみる。

中心部は栄え、ゆたかであり、充足している。皆のあこがれの場所だ。逆に、中心部から距離のある辺境は、栄えることもなく、目を見はるような豊かさもない。中心部の恩恵は巡ってこない。多くの人が中心にあこがれを抱き、辺境から移動して中心部を目指す。

優性の中心、劣性の辺境。わかりやすい構図だ。平常ならば、それでも良いのだろう。


中心は豊かである。だから、そこに住む人には、中心が中心で在り続けるように行動するインセンティブが生まれる。中心が中心である限りは、豊かさの恩恵が巡ってくるのだから。たとえ中心の価値が時代や環境にそぐわなくなっていても関係ない。いや、むしろそういう状況だからこそ、より一層力を合わせて、中心の維持に邁進するだろう。

あたらしい時代や環境に適応する動き、言い換えれば中心を中心ではなくする破壊的攻撃には断固として抵抗する。変化を拒む。それが中心に位置したものに与えられる業である。

中心から遠い場所にいる人々は、そうした業からは自由でいられる。恩恵にあずかっていない分、そんなことを気にする必要もない。自由気ままに行動できる。変化を受け入れられる。あるいは、変化を促せる。


視点を変えてみれば、辺境とは境界線に近い場所だ。あちらとこちらの境目である。

つまり、辺境にいる人は、中心維持的価値観から自由なだけでなく、異文化の価値観に親しみがある可能性が高い。同じものを異なる視点で見つめることができる。まったく前例のなかった行動を持ち込むことができる。それはすなわちアイデアの宝庫だ。炒り終えたコーヒー豆のようにイノベーションの香りが漂ってくる。

中心が崩壊しようとするとき、新しい可能性を持ち込めるのは、辺境の人々だ。維持のインセンティブに制約されることなく、変化へのインセンティブを持ちうる人々。だからこそ、改革は辺境から始まるのだ。


しかし、光り輝くお話ばかりでもない。

辺境が中心化すれば、巡り巡って同じことが起きる。維持のための維持運動が発生するのだ。だって、もう豊かさはあるのだから。そして、そこに居続ける限り豊かさが回ってくるのだから。戦いは終わりを告げ、インセンティブは変化してしまった。イノベーションは、もう残り香すら感じられない。

それは別に悲しむべきことではない。業の委譲であり、遺産と呪いであり、文化的新陳代謝でもある。どこかでだれかが、いつもどおりに担っていることなのだ。全てのものは滅びに向かい、同じ川に二度と足を踏み入れることはできない。

そういうものだ。


できることならば、中心部に居座り続けるインセンティブを獲得することなく、いつでも自由に動き回れる状態を維持しておきたい。境界線を渡り歩き続ける人でいたい。

でも、それは簡単なことではないのだろう。注意深く立ち振る舞わないと、インセンティブはやすやすと私たちの中に入り込んでくる。

仮にそうなっても、自分で気がつくことはない。「当たり前」が別の「当たり前」に変化するだけだ。そうして、同じように毎日「当たり前」の行動を繰り返していく。それまでとまったく違うことをしていても、それが意識されることはない。個人の理念も、会社のビジョンも、そのようにしてじわりじわりと死んでいく。

それはもしかしたら良いことなのかもしれない。あるいは良い可能性を含んでいることなのかもしれない。でも、注意は必要だろう。


一つ言いたいことは、辺境にいることは別に劣ったことではない、ということだ。変化の可能性という点では、むしろ中心部より優れている可能性がある。もちろん、楽でも安泰でもないだろうが、何かしらトレードオフというのはあるものである。

ただし、変化のインセンティブを持つことは、そのままプラスの変化を生み出せることを保証はしない。変革者も破壊者も、ことを起こす前には同じように見える。その点には留意したいものである。

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