4-僕らの生存戦略

スマホは捨てない、情報のわんこそば、二つの場所を行き来する

昨日、いつものようにTwitterを見ていたら、次の記事がタイムラインに流れてきた。

「スマホやめるか、大学やめるか」 信州大入学式で学長(朝日新聞)

なかなか物騒なタイトルだなと思いながらスルーしていたのだが、何回か目に付いたのでとりあえず読んでみた。

「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」。信州大の入学式が4日、松本市総合体育館であり、山沢清人学長は、8学部の新入生約2千人に、こう迫った。

おいおい、と思った。スマートフォンをやめる? 膨大な情報と、多様な人がその先にいるネットにアクセスするための手段を捨てる? バカバカしい。

もちろん、言いたいことはわかる。インターネットに入り浸って、自分の頭で考えることを止めてしまうのはあなたにとってプラスにならないよ、ということだろう。

また、たしかにスマートフォンが私たちの日常に(もう少し言えば、日常の時間の使い方に)影響を与えていることはある。一つの物事に集中する力が阻害されているような感覚もある。その意味で、スマートフォンに代表される「インターネットと近づける」端末との付き合い方を考えることは知性の維持にとっては大切だろう。

しかし、ことはそんなに簡単ではない。少なくとも、普段から自分の頭で考えることをしない人からスマートフォンを取り上げても、別のツールを使って時間を潰すだけの話である。

また学長は、「スイッチを切って本を読み」と言っているが、本を読めばそれで事足りるのかという問題もある。本は読んでいるのだが、本に飲まれてしまっている人についてショウペンハウエルは強い警告を発している。読書は、知性にとって必ずしも善なる導きとはならない。ときには、闇に引っ張り込む力だってあるのだ。

といったことをつらつらと(やや批判ぎみに)考えていたのだが、学長の言葉の「全文」を読んで、ころっと印象が変わった。

信州大学・山沢清人学長の入学式あいさつ全文(朝日新聞)

すばらしい言葉だし、とても大切なことが書いてある。

最初にこちらを読んでいたら、まったく違った感覚を持っていただろう。あるいは、最初の記事しか読まずに、こちらの存在を知らないままであったら、群盲象を評す的なことになっていたかもしれない。

そもそも、最初に引いた記事のタイトルはどうなのだろうか。たしかに、学長の言葉には「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」とある。しかし、その言葉と「スマホやめるか、大学やめるか」は明らかに文脈が違う。

学長の言葉は、信州大学が重視している(価値を置いている)ものと、スマートフォン依存症が相容れないことを示している。「信大生」のアイデンティティとスマホ依存はそぐわない、ということだ。決して、「大学生でいたかったら、スマートフォンをやめろ」とは迫っていない。しかし、記事のタイトルからはそのニュアンスが感じられるし、そのニュアンスがそのまま先入観として機能してしまう。

もちろん、理屈はわかる。

「スマホやめるか、大学やめるか」
「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」

比べてみれば、前者の方が明らかにキャッチーだ。人の気を引く。ネットでよくある「主語が過剰に大きくなっている」と同じ構造だろう。読まれやすいタイトルは前者である。

だからこそ、私もこの最初の記事を読んだわけだ。もし、下の言葉がタイトルとして使われていたら、ツイートされる数も少なくなり、私もわざわざ読もうとは思わなかったかもしれない。

そして、それが、それこそが学長が杞憂している問題と重なるのだ。

大切なもの

学長はあいさつのなかで、「自分で考えること」の重要性を説き、そのために必要なものとして「時間」を挙げている。

自らで考えることにじっくり時間をかけること、そして時間的にも心理的にもゆったりとすることが最も大切となります。

スマートフォンが象徴する、あるいは促進させる価値観は、これとまったく逆である。

すばやくたくさんの情報を次々と取り入れていくこと。話題の先、その先へと向かうこと。そうすれば、どうなるか。わかりきったことだ。消費のサイクルが早まる。話題の本を一冊読み終えるころには、次の話題の本が登場している。遅れまいと、それを手に取り、また新しい本が……。

ショウペンハウエルの警句は現代でもその響きを残している。ソクラテスが「書き言葉」を嫌った心理も、形を変えて生き延びている。

新しく押し寄せてくる情報は、私たちからそれについて考える時間を奪う。自分に起きたことを深化させる暇すらない。まるで、わんこそばだ。しかも、タチの悪いことに、情報は食べ物と違い満腹の信号が脳から送られてきたりはしない。いくらでも、ずるずると吸い続けられる。その代価として、私たちは時間のゆとりを失っている。

全文ではなく概要のみを触り、しかも、その概要についてすらろく考えることをしない。当然、反応はテンプレ的になってくる。個性の表出など、どこにも期待できない。

私たち人類は非常に似通ったDNAを持っている。しかし、違いはやっぱりある。それは、経験が異なるからだ。見たもの、食べたもの、接した人、読んだ本、観た映画、聴いた音楽、成就した恋愛、成就しなかった恋愛、うまくいった仕事、うまくいかなかった仕事……。どれだけ似ている双子でも、これらが全て同じということはない。

だからこそ、時間をかけて考えれば考えるほど、個性が出てくるのだ。その人がこれまで体験してきたものが、三日間ほど煮込んでいる豚骨のコクのように出てくる。

即時的なリアクションには、その人の限定的な要素しか反映されない。そして、限定的な要素では人には大して違いはないのだ。人が怒りにまかせたときに最初に口に出す言葉には、それほどバリエーションはないだろう。そういうことだ。そして、それは容易にAIで代替できる。パターン化可能だ。厳しく言えば、人間的ではない(人間の独自的な価値にはなりえない)。

私たちには時間が必要である。

もう一度言おう。自分の頭で考えるためには、なによりも時間が必要なのだ。偉い人が発した情報を次々と取り込んでいくだけでは、どうしたって鵜呑みしかならない。

情報や知識は大切である。物事を考える材料にはなってくれる。でも、仕入ればかりして調理しなければ、料理は生まれない。

世界を行き来する

あらためて学長の言葉を読み直してみると、一つのことに気がつく。

スイッチを切って、本を読みましょう。友達と話をしましょう。そして、自分で考えることを習慣づけましょう。自分の持つ知識を総動員して、ものごとを根本から考え、全力で行動することが、独創性豊かな信大生を育てます。

学長は別に「スマートフォンなんて持つな」とは言っていない。言葉にあるのは「スイッチを切れ」である。

つまり、便利な道具は便利な道具として使いながらも、ときにはスイッチを切って、別のことに関心を向けましょう、ということだ。

スイッチを切るとは、「切り替える」ことを意味している。それは、「書斎」の斎が持つ意味と近しい。こちら側とあちら側を分け、ときに静謐なあちら側に足を運ぶこと。日常から切り離された空間で、自身と対話すること。これは、象牙の塔に引きこもるのとは違う。なぜなら、書斎への移動は「帰ってくること」が含まれているからだ。行きっぱなしではない。

スマートフォンのスイッチはオフにされても、いずれオンに戻される。そこでは、また豊かな情報と人が待っている。きっとそのとき目に映る風景は、新しい色合いと音の響きを持っているだろう。

この二つを「行き来すること」。たぶん、それが大切なのだ。

さいごに

この記事を書くのに二時間かかった。つまり、少なくとも二時間は私は自分の頭で考えることをしたと言える。

さて、あなたはどうだろうか。

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