根源たる場所
ファイル構造がなく、すべてを一枚のアウトラインに収める、というのは居心地が悪いよう思えるかもしれない。パソコンのファイル形式に慣れていれば、特にそう感じられるだろう。
また、意識の問題にしても同様だ。私たちの意識は__「言葉」によって創出され、維持される意識は__、「あれは、あれ」「これは、これ」という傾向を強く持っている。全てがごちゃまぜに、一つにまとまっているのは違和感が強い。
しかし、私たちはそれぞれが一人の人間であり、一つの脳を有している。記憶も思考も、すべてそこで行われる。同一の主体が行う行為なのだ。
瞬間瞬間の私たちは、あたかも別の存在であるかのように感じるときがある。仕事をしている自分と、恋人と一緒にいる自分は、思っていること、考えていること、口にする言葉が違う。だから、あたかも違う存在であるかのように「感じられる」。
が、脳は一つである。それはビリー・ミリガンだって同じだ。
私たちは日記をつづり、仕事の報告書を書く。
アウトプットとしてはまったく別物だ。もし、報告書.docに日記.txtの文章が混ざり込んでしまえば、怒られることは必至だろう。しかし、報告書の文章に、日記を書きながら考えた論考を混ぜ込むことはおかしくない。むしろ、意義あるアウトプットはそんなところから生まれてくる。
脳は、カテゴリーごとに記憶を切り分けたりはしない。ファイルを分けたりはしない。だから、「ベンゼン環」を思い出そうとして「ジェレミ・ベンサム」という単語が頭に浮かんでしまう。蜜柑を食べながら、未完の作品についてふと考えてしまう。全てがごちゃまぜに、一つにまとまっていて、そのときそのときに応じて「切り出されている」だけだ。
WorkFlowyも、同じ構造になっている。
保存し、操作し、引き出す場所は単一。「すべてはそこにある」という感覚があり、実際的にもWorkFlowyにアクセスすればすべてが手に入る。ファイルを一つ一つ探し回る必要はない。目視でも検索でも、必要なものは見付けられる。
また「切り出し方」にもさまざまな方法がある。タグによるカテゴライズであったり、ズームによるフォーカスであったりと多様だ。
使う前に感じていたWorkFlowyに対する違和感も、徐々に使い込んでいくうちに消えていく。むしろ、この方が自然な気がしてくる。実際に、その方が自然なのだ。「あれは、あれ」「これは、これ」は人間の意識(主に前面に出ているもの)が持ち出した流儀であり、実際の本質ではない。あくまで意識にとっての便宜というだけだ。
そして、この設計(ファイルなし方式)は、ツールの使いやすさ・自然さだけでなく、そこに一つの思想を垣間見ることもできる。
Make Lists, Not War.
(第五回に続く)
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