Make Lists, Not War.
WorkFlowyの左下には、こんなフレーズが載っている。
「Make Lists, Not War.」
ヒッピー文化の「Make Love, Not War.」のモジりなわけだが、この言葉には気の利いたジョーク以上のメッセージが込められている。どういうメッセージだろうか。
たとえば、次のような二つのリストを作ったとする。
プロジェクトA、プロジェクトBにはそれぞれ3名が含まれていて、Aに含まれている人はBには含まれていないし、Bに含まれている人はAには含まれていない。排他的である。ファイル形式であれば、別のファイルとして作成された可能性もある。特に両者のプロジェクトに何の関係性もなければそうなるだろう。
しかし、WorkFlowyにはファイルがないので、上のような作り方をすることになる。何か一つの大きな項目の下部リストとして作るしかない。それは、WorkFlowyで作成する全てのリストについて同じことが言える。
すると、次のような二つの思想的視点が生まれてくる。
- 全ての要素は交換可能である
- 全ての要素は「名前の付けられない大きなもの」の一部である。
ずいぶん大げさな話になってきたが続けよう。
WorkFlowyは、どのようなリストも一番大きなリストの下に位置することになる。そして、これらの要素はドラッグで移動可能だ。プロジェクトAに配置された人を、すぐさまプロジェクトBに移動することができる。つまり、それらは流動的であり、プロジェクトA、Bというのは暫定的な仮置きの場所でしかない。
「あれは、これ」であり「これは、あれ」であるのだ。私はあなたであり、あなたは私でもありうるのだ。
だから日記を書きながら考えたことを報告書の文章に混ぜ込むことができる。全然違う文脈のアイデアを、ひょいと持ってくることができる。イマジナリーに引かれた境界線をやすやすと越えることができる。仕事とプライベートを飛び越え、遊びと思想を飛び越え、敵と味方を飛び越え、過去と未来と飛び越える。全ては交換可能・配置換え可能な要素であり、そしてつながっている。
プロジェクトごとにファイルを作り、それぞれを開かないと中身が閲覧・操作できないツールでは、このようなことは不可能である。
WorkFlowyはリストという境界線を引くが、その境界線は暫定的、流動的、仮説的なものでしかない。このツールが育む思想的視点は、いわゆる「レッテル貼り」とは真逆の方向性を持っている。固定ではないのだ。ある場所に置かれたものが、まったく別の場所に置かれうる可能性を提示する。
それがどれほど可能性に満ちているかを想像できるだろうか。そこにはアイデアの閃きがあり、慈愛があり、共感があり、同情がある。「あれは、これ」であり「これは、あれ」であるのだ。
イマジン。
名前の付けられない大きなもの
(第六回に続く)
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