WorkFlowy企画:第六回:すべての根源たるもの

WorkFlowy企画:第五回:Make Lists, Not War.

名前の付けられない大きなもの

ファイルを作るときに、絶対に必要になるものはなんだろうか。

そう、名前だ。ファイルには名前を付けなければいけない。何も付けなければ、システムが自動的に割り当ててしまうぐらい名前は必須の存在だ。

WorkFlowyにはファイルがない。従って、それに名前を付ける必要もない。全ての要素は「   」に含まれているのだ。

名前は便利な存在である。コミュニケーションを促進してくれる。名前を与えることは、機能を定義することでもある。それが何であるか、何でないかを決める。

しかし、名前は束縛する。どれだけ大きく、豊かで、含みのあるものでも、名前を与えると一部分に限定されてしまう。大きなクッキー生地に金型を押し込むようなものだ。

たとえば、限りなく超越的な存在である『神』ですらそうだ。おそらく、そこに名前がなければ、つまり感覚の段階であれば、そこにはこの世界のすべてを、そしてそれ以上のものすべてが含まれているはずだ。

しかし、名前が付くことで、それは人間の認識に限定され、勘違いや誤解を生じさせる原因となる。ただありのままに受容すれば満ち足りていたものが、言い争いの材料になったりする。

「名前」という便利なツールに付随する副作用のようなものだ。

WorkFlowyは、一枚の大きなラインにすべての要素が配置される。そして、それらは交換可能であり、配置換え可能である。「これはあれ、あれはこれ」だ。そして、すべてがつながっている。どのような要素であっても、それは「   」に含まれた子でしかない。

皆が等しく、平等であるとは言えない。階層があり、自分の子の豊かさの違いはある。差はあるのだ。しかし、根源は同じである。辿っていけば、いずれ同じところにたどりつく。

私は京都府民である。だから、他の京都府民と同じ地平にいる。私は日本国民であるので、他の日本国民とも同じ地平にいる。これはいくらでも拡大していける。地球市民、宇宙市民、三次元市民……。そして、→∞で、根源にたどり着く。決して名前の付けられない、大きな根源へ。

こうした拡大には、すべてのものが含まれる。人類の同一性ばかりではない、その他の動物だって、道ばたに転がる石ころだって、→∞のどこかで同一性の中に飲み込まれていく。

これは、世界の在り様であり、私たちの認識の在り様でもある。

すべての要素は決して名前の付けられない大きな根源に属するし、またすべての要素は私の認識の下にある。私の横でニコニコ笑う妻も、目の前にあるMacBook Airも、そろそろ湯気が消えつつあるコーヒーとコーヒーカップも、(階層の違いはあるにせよ)「私が認識している」という点では、同一のラインに属している。我認識する、ゆえに世界あり。

どれほど美しくみえることでも、どれほど愚かしくみえることでも、「(私が)みえている」という点では同じだ。すべての要素は、私が認識の下に接続されている。そして、その根源には名前を与えることができない。名前を与えようと意識した段階で、それは認識の下に接続されることになるからだ。それは、ただそこにあるだけ。

世界の在り様と、私たちの認識はコインの裏表のようなもので、結局は同じことである。すべての根源は同一で、しかも名前を与えることはできない。

WorkFlowy(およびEvernorte)の設計思想は、ファイルを持たない。下に含まれるものはいろいろあっても、根源は「     」である。

そしてその構造は、私たちの認識が__つまりは脳のメカニズムが__そうなっている以上、脳にフィットするためには必須なスタイルなのかもしれない。両ツールの開発者がそれを意識してこうした構造を採用したのかどうかはわからない。しかし、利用者として感じるこれらのツールの「自然さ」は、ぬぐいがたい感覚である。

もちろん、普通に利用する上で「そうか、これは私たちの認識と世界の在り様のメタファーなんだ!」なんてことを考える必要はない(疲れるだけだ)。

ただ、最初は違和感を覚えるかもしれない「ファイルがない一つのものに、どんどん保存していく」が、やってみると存外にフィットすることは知っておく方がよいだろう。

Shake!

第七回に続く)

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