断片からの創造

千行の小説とフラグメント

たまに、「あっ、この文章ってどの本のだったかな?」と思うことがあります。

自分が読んだことがある、という感覚はあるけれども、それがどの本かはわからない。そういうときは、もちろん手持ちの本を1ページずつ繰っていく、__ということはできないわけで、Google先生にお伺いを立てるのが手っ取り早いです。

うまく見つかることもあれば、見つからないこともあります。

引用している記事が見つかることもあれば、Googleブックスで本のページが表示されることもあります。

そこで、ふと思います。


仮に千行の小説があったとしましょう。

その小説の各行を、検索で見つけられるようにする手っ取り早い方法は全文をウェブ上にアップしてしまうことです。技術的に難しいことはありませんが、作者はそうした状態を望んでいないかもしれないので、そのままではWin-Winではありません。

では、たくさんのブロガーがいればどうでしょうか。

彼らは自由な行動の結果として、本から文章を引用します。記事に含まれる文章は一行かもしれません。しかし、それが1000個集まれば、「あっ、この文章ってどの本のだったかな?」の検索にきちんと答えられるようになります。

それでいて、小説の作者が持っている価値を傷つけることはありません。なにせ、すべての行は独立し、分散して存在しているのですから。一行を見つけても、全文にはたどり着けない。そういう環境ができあがります。


しかしながら、これはあまりにも理想的な状況を想定しすぎています。

一番の問題は、自由な行動の結果として、小説を構成する千行の文章それぞれが引用されるのか、ということです。全ての文章が印象的であり、引用に値する、というのはいささか考えにくいものです。すると、1000人のブロガーがその小説に言及しても、検索に対応できるのは、そのうちの20%かもしれません。あるいはもっと低いことも考えられます。

ブロガーの数を増やしていけば、網羅率は改善していきます。極限まで飛ばせば100%になるかもしれません。しかし、それは現実には存在しない世界です。私たちがたどり着けるのは、そこよりももっと手前の世界でしかありません。

断片化で対応しようとすると、偏りが生まれます。

全文をアップすれば、そうした偏りについて心配する必要はありません。しかし、その思想をキープしたまま視点の高度を上げれば、「どの小説の文章をアップするのか」という点についても問題が生じてきます。結果、真に偏りのない状態を目指すならば、「ありとあらゆる文章の、すべての行をアップする」という信条が必要になってきます。

ビッグブラザーは、人民に等しく接するのです。


もう少し”現実的”に考えて、「本当に全文が必要なのか?」という疑問を導入すればどうなるでしょうか。

全文のアップは検索に対応するためでした。しかし、引用されやすい文章があるのと同じように、検索されやすい文章というのもあるでしょう。であれば、その需要さえ満たせば、後はどうでもいいのではないか。少なくともそれで8割、9割うまくいくのではないか、というアプローチが出てきます。

もし、検索されやすい文章が、引用されやすい文章と似ているなら、意識的な努力をしなくても、検索の世界は徐々に整備されていきます。が、それは必ずしも、「なんでもウェブで見つかる世界」ではありません。探されやすいものが、探しやすいとうだけの世界であり、こぼれ落ちているものはたくさんあります。

全文アップの世界も、「よく必要とされる2割の文章だけが、8割の人によって検索される」だけの世界も、そのままだとあまり面白みがありません。


まったく、別のことを考えます。


ある小説家が、お茶目な思いつきをしました。

「そうだ、パクって小説を書いてやろう。自分で一行も文章書かないで、小説を書き上げるんだ」

そこで彼は、千人の作家の千冊の小説を机に積み上げ、それぞれの小説から一行だけ文章をパクって、自らの原稿にはめ込むことにしました。文章を改変することなく、また自分で文章を書き足すこともなく、ただ純粋に一行だけパクって、原稿用紙のマス目を埋めていく。

そうして、最初から最後まできちんと意味の通じた、それでいて面白い小説を作り上げました。

これって創作といえるでしょうか。


断片化あるいはパケット化って、いろいろメリットがあります。

しかし、断片化されたものは統合されてナンボ、という気もします。

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