7-本の紹介

【書評】日常に侵入する自己啓発(牧野智和)

何冊くらい並んでいますか? 本棚に自己啓発書。

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ
日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ 牧野 智和

勁草書房 2015-04-09
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書店のビジネスコーナーにこれでもか、と陳列されている自己啓発書は、社会学的にどのような位置づけを持ちうるのか。それを研究した本です。

前もって書いておきますが、本書は学術書であって、ビジネス書でもましてや自己啓発書でもありません。そこをうっかり勘違いすると大ダメージを喰らいますのでご注意を。


さて、本書の内容なのですが、もちろん「自己啓発礼賛」といったものではなく、また一部のビジネス書に見受けられるような「自己啓発書なんてクズ」みたいなものでもありません。

一見内容が薄く、また本質的にはあまり代わり映えのしない内容が、装飾だけを変えて次々と発売され、しかもそれが売れているという状況に、一体何を見て取ることができるだろうか、という視点です。

この視点が非常に新鮮でした。たくさん売れている本がある以上、それを単に「愚昧なもの」として切り捨てるのではなく、そこに何らかの意義・役割があるのではないかと探る。そんな試みが行われています。

自己啓発書は、一方では「これは本当にすばらしいことなんです」と目をきらきらさせて主張する人がいて、もう一方では「こんなクズな本なんて紙くず以下だ。君たちは騙されているんだ」と主張する人がいます。たしかに、それぞれは正しいのでしょうが、棒の両極端だけを提示しているのかもしれません。

その中間には、盲信もせず、かといって全否定もせずに、自己啓発書とゆるく付き合っている人たちがいるはずです。そして、そのゆるく付き合うというスタンスが、実は現代を生きる多くの人にマッチしていて、そのニーズを満たすための装置として(大量に生み出される)自己啓発書が機能しているのではないか。著者はそんな視座を持って考察にあたっています。


自己啓発書とゆるく付き合うことで得られる「ちょっとしたこと」を、応急処置と見なし著者は次のように書いています。

このような応急処置を取るに足らないことだと考えるべきだろうか。著者はそう考えない。というのは、応急処置であっても人々の不安や混乱に対処するために用いられ、部分的であっても人々の自己定義や行動の指針としてとりいれられるような対象は、今日の社会ではかなり稀有なものではないだろうかと考えるためである。

絶対的な価値観が消失し、多様性のうずに飲み込まれながら、安定さを欠いた地面の上を歩き続けなければならない現代の私たちにとって、応急処置的なものは、ひとときのフックを提供してくれます。「あぁ、やっぱりこれが大切なんだ」というのは発見ではなく再確認でしかありませんが、その確認作業が__確信作業と言い換えてもいいです__もたらしてくれるものはたしかにあります。

そう考えるとき、「緩やかに、暫定的に、入れ換え可能なかたちで、継続的な確信なしに読まれ、とりいれられる」という自己啓発書の「薄い文化」は、価値や行為の基準がますます流動的になる現代にむしろ適合的だとさえ考えられるのである。

これはソフトウェア的にいえば、「プラグイン的」とも表現できるでしょう。OSの抜本的な入れ換えではなく、追加機能としての自己啓発。それは機能している間は、存分に使われますが、不適合になればさっさと捨てられるか、あるいは新しいバージョンが導入されます。

そのようなものを提供するメディアとして自己啓発書は機能しており、またそれが、極端に自己啓発書にはまり込んでいる人以外にも売れているという点で、社会全体に広がっているニーズでもある(と予想される)と著者はみています。

具体的な章立ては以下。

  • 第一章 ハビトゥスとしての自己啓発
  • 第二章 「ヘゲモニックな男性性」とそのハビトゥス
  • 第三章 「自分らしさ」という至上原理
  • 第四章 「今ここ」の接合可能性
  • 第五章 私的空間の接合可能性
  • 終章  自己啓発の時代のゆくえ

章題からでは見えにくいのですが、第二章では「世代本」(○○歳までにしておきたい〜〜のこと)、第三章では女性の生き方提言、第四章では手帳術、第五章では片付け術がそれぞれ分析対象となっています。

私には少々難しい内容でしたが、一人の物書きとして(しかも自己啓発書に分類される本を書く物書きとして)興味深い視点を得られました。
※ちなみに、参考文献に拙著の名前が挙がっていたのが、本書を手にとった理由でもあります。

おそらく私が目指すべきは、「プラグイン」からOSをハッキングするようなものではないか、という気がしました。「緩やかに、暫定的に、入れ換え可能なかたちで、継続的な確信なしに読まれ、とりいれられる」のどこかの部分を書き換えてしまう。それが現代のメディア特性に沿いつつも、私の為したいことを達成する手法なのかもしれません。

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