「タスク」の研究

タスク管理、魔法の杖、「それでも」の姿勢

以下の記事を読みました。

理想と現実のグラデーション | 佐々木正悟のライフハック心理学

アウトライナーを用いたタスク管理(的な何か)の手法と、タスクシュートとの共通性というのは、なかなか興味深いテーマです。

が、その話はちょっと横において話を進めます。

未来日記はもちろん、ただの希望的観測ですが、私たちは朝起きた時には、すでに述べたように「無定見」なものですから、「今日は時間もありそうだしEvernoteの整理に明け暮れるし、そのあと新しい原稿の企画をまとめて・・・」とわけのわからない妄想に終始するわけです。

朝一番に、「今日の計画」を立てるとしましょう。きっと、素晴らしい一日が脳内では展開されていくはずです。制約が何一つなければ、「原稿をしゅぱぱんと3つ書いて、ブログのデザインを変更して、新しいブログサイトの準備をしながら、新企画について一人ブレスト、でもって、Evernote用のスクリプトをリファクタリング」みたいな「計画」が脳内を駆け巡るでしょう。

そして、おそらくその瞬間は「快」の状態にあるのではないかとも推測します。何せ、素晴らしい一日が待っているのですから。

しかし、そうして頭の中に思い浮かべたことは、「やりたいこと」でしかありません。もちろん「やったほうがよいこと」も混ざっているでしょうが、その実「やったほうがよいと思っているので、できれば今日中にやっておきたいこと」と構図が複雑なだけで、中身は同じです。ようするに「できること」ではないのです。

タスク管理に関する誤解というか勘違いは、ここにあります。タスク管理は「できないことを、できるようにする」ものではありません。そんな魔法はどこにもありません。タスク管理が行うことは、単に「できることを、する」だけです。

手持ちの時間が8時間しかなければ、8時間以上の作業はできません。もちろん25時間以上の作業を一日に収めることも同様です。そもそもその仕事が好きではない人間に仕事を好きにさせる効果もありませんし、体力がない人間の口にホウレンソウを突っ込んで、力こぶを浮き上がらせる効果もありません。

ちょっと考えてみてください。あなたが賢明にストレッチをしたとしましょう。それで体がすごく柔らかくなったとします。しかし、関節の可動域以上に体をねじることはできませんし、ジャンプしてそのまま空中に浮いていることもできません。できないものは、できないのです。

タスク管理においても、それは同様です。

タスク管理を行ったからと言って、「やりたいこと」がすべて「できること」に変換できるはずがありません。むしろ、ものすごく限られた「できること」の中に、やりたいことをジワジワと染み込ませるくらいが関の山でしょう。

やりたいことが5あっても、手持ちの資源(時間・体力・集中力そのたもろもろ)が1しかないのならば、やっぱりできることは1だけです。それは非常に残酷なようですが、現実のお話です。

ただ、手持ちの資源が1しかないとわかっていれば、5のうち4を諦めるか、あるいは、それぞれ0.25ずつぐらいでも進めていくか、という選択ぐらいはできるようになるでしょう。

タスクシュートやら何やらをみていると、非常に残念な気持ちがすると思います。特に細かく行動記録を付けていると、作業時間__作業に使える時間ではなく、自分が実際に作業している時間__がミミズの涙であることを否応なく知らされます。でも、それがスタートなのです。

タスク管理系と夢系の話が絡むと、あたかも「できないことを、できるようにする」ようなファンタジーが立ち上がりますが、それはやはりファンタジーでしかありません。重要かつ緊急でないものを見極めることと、それが実行に移せることはイコールではつながっていないのです。

が、しかし、私はこうも思います。

もしそれが強制的な催眠でないのならば、人は見たい現実を見ています。あるいは必要な現実を見ています。だとすれば、ファンタジーもまたそれなりに役割があるのではないでしょうか。

もう一度、最初にあげたブログ記事から引用します。

ここで「タスクシュートの残念さ」を指摘する方が多いのですが、私の答えはいつも同じです。タスクシュートがあるから自由がなくなるのではない。もともと自由ではなかったのなら、タスクシュートの有無は、自由とは関係ないはずです。

タスクシュートの残念さは、おそらく「見せられたくないものを、見せつけられてしまう」部分に起因するのでしょう。それはつまり、ファンタジーを壊す、ということです。「自分にはこれほど自由に使える24時間がある」という幻想を打ち砕いてしまうのです。そして、その幻想は、もしかしたら必要なものなのかもしれません。

少なくとも、そこに「快」があろうことは最初にも書きました。そして、それが何かを支えている可能性があります。もちろん、それは決して科学的な態度とは言えません。無理に線を引けば、非合理的とすら言えるでしょう。しかし、時と場合によっては、そういうものも必要だろうな、という気はしています。

「自分」というものを切り離し、あたかも実験用のラットを観察するように自分の行動記録を眺められるならばともかく、そうでない人ならば、一時的にであれ自尊心が傷ついてしまう可能性があります。もともと自尊心にハードコートしてある人か、科学的な視点の切り替えが得意な人であればなんとかそれを切り抜けられるかもしれません。しかし、そうでなければ、その穴は覗いてはいけない穴である可能性もあります。

すごく卑近な例で話を置き換えれば、何か問題があって困っている人に100%正論のアドバイスを返すと、逆に反感を受けてまったく話を聞いてもらえないことがありますが(それも、多々ありますが)、何かしらそれに近いものがあるのかもしれません。いきなりタスクシュートは、ショックが強すぎる、みたいな話です。

この辺りはかなり繊細な話になると思うので、ここではあまり突っ込みませんが、一応そういうことも有りうるのではないか、とだけ書いておきます。


機能するタスク管理には、夢物語を紡いでファンタジーに溺れるのでもなく、かといって「リストなんか必要ないっしょ、その場その場で対応っす」と手綱を捨てるでもなく、その両方の方向からじりじりと歩み寄るようなプロセスが必要なのでしょう。

これは要するに「真ん中の歩き方」ということですし、私がよくいう「それでも」の姿勢に通じるものだと思います。

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