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PR記事についての雑感

PR記事について考えてみたい。

そもそもPR記事とはなんだろうか。「PR」でググッてみると、以下のページがトップにヒットする。

パブリック・リレーションズ – Wikipedia

パブリック・リレーションズ(英語:public relations、略称:PR)とは、国家・企業・団体などの組織体または個人が、一般大衆に対して情報を伝播したり情報や意見を受け入れること。自身に対して理解や信頼を獲得しようとする目的で行われる広報活動または宣伝活動を含む概念で、多くの場合略して PR(ピーアール)と呼ばれる。

PRとは「Public Relations」の頭文字のようだ。パブリックは「公衆の」であり、リレーションズは「関係」なので、まるっと言ってしまえば、「一般大衆との関係構築のための行われる活動」となるのだろう。ちなみに、似た言葉としてIR(インベスター・リレーションズ)もある。こちらは投資家向け情報であり、月次の売り上げや決算のデータはこのIRにおいて公開される。この情報の宛先を一般に拡大したものがPR活動とも言えるだろう。

さて、そうすると、PR記事とは、Public Relationsのための記事ということになる。つまり、企業活動の一部なわけだ。どの媒体に掲載されようとも、文責がどうであろうとも、その記事の「主体者」は当の企業となる。

仮にブログにPR記事を掲載したとしよう。以下のような図式になる。

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一つのブログには複数の記事が並ぶ。その内の一部を、企業のPR記事として掲載する。このことには何も問題はない。ただし、PRの手段として掲載された記事は、先ほども述べたようにその主体社は当の企業である。簡単に言えば、ブログの場所をその企業に貸しているようなものだ。

ここでこんな疑問が思い浮かぶ。その記事を書いているのはそのブロガーなんだから、やっぱりその記事はそのブログの中に位置しているんじゃないだろうか。つまり、場所貸しとは呼べないのではないか。そういう疑問だ。

そこで仮想的な状況をイメージしてみよう。ひとりのブロガーになりきって欲しい。あなたは企業から依頼を受けて、PR記事を書くことにする。新しい枝キリばさみに関する記事だ。あなたは頑張って原稿を書き、それを企業の担当者さんに打診する。「ここの表現もうちょっと強めてもらえますか?」あなたは記事を修正し、それをアップする。

アップした翌日、担当者さんから連絡がある。「すいません、あの記事消してもらえないでしょうか。副社長があまり気に入っていないみたいで。もちろん、報酬はきちんとお支払いしますので」あなたはダッシュボードを操作して、該当の記事を消す。問題は何も無くなり、後日口座には振り込みがあった。

さて、このような場合、該当記事の「主体者」は誰だろうか。もちろん、企業だ。

ブロガーは、自分のブログについて何かを書く自由と書かない自由を有している。しかし、PR記事はどうだろうか。

「記事を書くことが、契約の中で定められている」
「内容に関して、企業の意向が働く」
「その記事を出す、出さないのジャッジメントに企業が大きく関わっている」

文章を書いているのがブロガーその人であっても、その記事の主体者はブロガーではない。少なくとも、「ブロガーだけである」と言い切るのは非常に難しい。

だからこそ、PR記事は、その他の記事とは分けておく必要がある。少なくとも、記事を読み出した時点で、できれば、読み始める前に、その記事の主体者はブログ主ではなく、企業なのだということを知らせなければいけない。

これは「その記事は、客観的に書いているから大丈夫なんです」という言い訳をはね除ける。そういうことではないのだ。客観的に書いてあろうがなかろうが、企業にその記事に関する権限(契約に基づく強制力)があるのならば、それはその企業活動の一部であると言える。

たがため

では、なぜ、そうした区別とその明記を行わなければならないのであろうか。実は、この点が一番重要である。

簡単に言ってしまえば、「悪しき意図を持つものを入り込ませない」「悪しき意図を持つものが得をして、そうでない人が損をしてしまうような構図を生み出さない」ためだろう。

現状、ブログでレビューを書いている人は「はいはい、ステマ、ステマ」とディスられた経験をお持ちではないだろうか。なぜ、そんな悪口をぶつけられてしまうかと言えば、そういう事例が別のブログであったからだろう。一つのブログについての不信感が、メディア全体にまで広がってしまうわけだ。

そのような状況であっても、ステマを(ばれずに)やっている人には企業からの報酬が手に入る。悪口を言われても、続けていくだけのインセンティブがそこにはある。ただし、ステマではない人は、悪口を叩きつけられて、しかも企業からの報酬は手に入らない。いささか残念な構図だ。

そうすると、悪貨が良貨を駆逐するような状況が発生し、レモン市場のような不信感だけが漂うメディアができあがる。そのメディアも当初は販促的価値を持つだろうが、やがては力を失い、メディアとして死んでいく。そして、企業は焼き畑農業を続けるために別のメディを探す、というわけだ。

これはまったく健全ではない。私の言い方をすれば「まっとう」ではない。

そこで、皆が守る共通のルールとして、「PR記事はそれと明記しておく」を持ち込む。そして罰則規定を設ける。

本来はこんな不自由なルールを持ち込みたくはないのだ。メディアとは自由であるべきなのだ。しかし、そうすると野蛮な蛮族が入り込んで、畑を焼き尽くしてしまう。それは、最終的に誰も幸せにはならない。だから、面倒でも不自由でもちょっとかっこわるくてもPRをつけようぜ、というのがメディア全体の健全性を守るために必要になってくる。

それもPRじゃねーの?

ここで別のツッコミを入れておこう。たとえば、「お前は出版社から献本をもらって、それについてのレビューを書いてるじゃないか。それはPRではないのか」というツッコミがある。一応本も価値あるものであり、その提供を受けていることは間違いない。それを敷衍して、何かのイベントに招待されたり、交通費を出してもらったり、みたいなことも対象にできる。

まず、最初に自分のことを書いておくと、たしかに出版社から献本をもらって、その本についてレビューを書くことはある。しかし、そこには何の契約も発生していない。書籍と共に「面白かったら紹介してくれたら嬉しいです」的な遠回しなメッセージが送られてくるだけである。
※ちなみに、献本の大半は書評を書いていない。

よって、そうした本の書評記事は「契約によってあらかじめ書くことが定められている」わけでもないし、その内容についても誰の意向も働かない。私が書きたいように書いている。私は基本的に本を貶すような書評は書かないが、仮に書いたとしても、その記事を取り下げさせることは__裁判にでも訴えでない限りは__出版社にはできない。

その意味で、献本であろうがなかろうが書評記事は私が主体者である。本のプロモーションにプラスの働きをしている可能性はあるが、PR活動に内在してそれを行っているわけではない。そして、その他のレビューについても同じ考え方で処理できると思う。
※ただし、献本を受けた旨は記事に明記している。自分が受けているかもしれないバイアスを読み手に調整してもらいたいからだ。

仮に極端な状況を想定してみよう。献本やたまたま担当者さんからプレゼントされたものがあるとして、そのレビュー記事すべてにPRを明記したらどうなるだろうか。もちろん、PR表記の意味が薄れてしまう。明らかに企業の意向で作られた「感想」と、個人の率直な「感想」が同じカテゴリーに属してしまうのだ。だとしたら、それは「悪しき意図を持つもの」の狙い通りではないだろうか。

かといって逆に、献本にもPRを付けないんだから、広告記事にも必要ないですよね、と極端な形に反動してしまえば、それこそ「悪しき意図を持つもの」が舞台裏でほくそ笑むことになる。

皆が共通で定めるルールは、そうしたものを排除する、あるいは排除できないにしても有利な状況に置かないことが目的であろう。そこを踏まえて運用しないと、何が何やらわからなくなってしまう。

さいごに

以上、いろいろ書いてきたが、私は別にルール策定の決定者でもなければ、業界に詳しいわけでもない。究極的には、自分はそのように考えて行動をとっている、というだけの話だ。まあ、一つの意見として小耳に挟んでもらえれば幸いである。

ちなみにこれは「レビューは客観的に書くべきだ」みたいな問題とはまったく異なっているので注意されたい。あくまで主体者は誰なのか、という点だけを問題にしている。

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