6-エッセイ

心の中の矢印

inspired by 心づもりの集積の結果として:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

「目標」というものがあまり好きではない。特に、「長期的な目標」とかになると絶望的である。

とは言え、目標を立てたことがないわけではない。むしろ、コンビニ時代は目標を立てることが仕事の一部であった。物書きになってからも、「面白い本を書きたい」という目標はいつも内ポケットに忍ばせている。むしろそれは、目標というより欲望に近いものだが、その線引きは私の脳内では曖昧である。

目標には力があり、それが人を引っ張っていく。それは良いように使えば良い作用をもたらすし、悪いように使えば悪い作用をもたらす。それだけでしかない。

では、私は「目標」の何が気にくわないのだろうか。おそらくそれは「目標」という言葉の概念そのものではない。ではなにか。それは、その言葉にまとわりつく「固さ」である。言い方を変えれば、それを使う人の思考に潜むパラダイムだ。

目標を定めたら、後はそれに向かって一直線に進むだけだ、と考える人がいる。
自分の人生に起こりうることは、自分がすべて理解できている、と考えている人がいる。
自分やその周りに起こることを、自分がすべてコントロールできる、と考えている人がいる。

傲慢だろう。あるいは無知かもしれない。どちらにせよ、現実とはほど遠い。

私は、ある種の人たちが使う「目標」という言葉に潜む、「人生はコントロールしるうものだ」という考え方に、どうしても同意できない。そこには控えめに言って虚偽が潜んでいるように思える。

人生は私たちの理解におさまるようなものではない。ときに大きく不条理であり、であるがゆえに予想外のことがいつでも起こりえる。あまた存在する人の行動と意志が、創発に彩られた未来を引きおこす。だからこそ、それはいつでも豊かな可能性を秘めているのだ。

固い「目標」は、その豊かさを限定してしまう。少なくとも、その危険性を秘めている。


自分の周囲にふわふわと浮かんでいる矢印をイメージして欲しい。それは他の人には見えないし、自分も触ることはできない。ジョジョの奇妙な冒険に出てくるスタンドのようなものだ。

その矢印は、あなたが何かしらの選択肢・分岐点に立ったとき、「こっちですよ!」(あるいはこっちじゃないですよ!)と示してくれる。

たぶん、目標というのはそれくらいの柔らかいもので良いと思う。

もちろん、それではどこにたどり着くのかはわからない。しかし、矢印の方向に向けて進んでいることだけは確かだ。そして、人生というのはどこにたどり着くかよりも、どちらに向かって進んでいるかの方がはるかに大切である。なぜなら、人生の終着点は死そのものであり、人生とはその旅路を指すからだ。旅路を大事にしないで、人生を大事にすることなどできない。

不思議なことに__あるいはまったく不思議ではないのかもしれないが__、同じような矢印を持つ人同士はリレーションを持つ可能性が高い。別に同じ地点を目指して歩いているわけではないにも関わらず、だ。しかし、矢印と矢印は引かれあう。それはきっと、似たような分岐点に立ったとき、同じような選択をするからだろう。

そうして、ときどき旅路が交差する。

そのまま一緒に旅を続ける人もいるだろうし、一時の邂逅を大いに楽しみ、その後別々の道を歩む人もいる。

何が正解ということはない。それが人生である。


ガチガチに固めた目標も息苦しいものだが、なんでもOKの刹那主義も旅路の味わいを少し損なっているかもしれない。

もし、自分の心の中にふわふわと浮かんでいる矢印があるのならば、それは大切にしたい。もちろん、「自分の矢印を作ろう!」という目標を立てるのは何か変だろう、ということだけは言っておく。

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