物書き生活と道具箱

ブロガー兼著者の悩み あるいはコンテンツの価値

私は片方ではブロガーであり、もう片方では本の著者でもあります。

すると「ややこしい問題」が出てきます。たとえば、「何をブログに書き、何を本に書くのか」という問題がそれです。

少し長くなりますが、佐々木正悟(@nokiba)さんのツイートを引用してみましょう。

私も「目新しいことはなかった」系の感想をいただくことがあります。結構、これでもメンタルはタフな方だとは思いますが、やっぱりそれはそれでシュンとしてしまいます。全体的には、がっかりさせてしまって申し訳ない、というようなタイプのシュンです。

だったら、自分の持ってるノウハウを一切ブログに出さずに、本だけに書いてしまえばよいのではないか__という仮説が出てくるのは必然でしょう。私はそれを100ミリ秒で却下しますが__このブログのモットーは”sharing is power.”です__、議論の出発点としては悪くない仮説です。

あるいは、「コンテンツの価値とは目新しさのみによって定まるのか?」という方向から問いを立てることもできるでしょう。個人的には、こちらの問い立ての方が楽しめそうです。

そして、この問いは「本が持つ価値とは何か?」という非常にやっかいな__そして著者としてはクリティカルな__問いへと発展していきます。

たとえば、辞書について考えてみましょう。

もし、辞書に載っている言葉が、編纂者が新たに作り出した造語ばかりだったらどうでしょうか。読み物としてはおもしろいかもしれませんが、辞書として役には立ちません。ある意味で、辞書に載る言葉は、「ほかの誰かが知っている」ものでないといけないわけです。

もちろん、辞書を引く人はその言葉を知らないかもしれません。しかし、ほかの誰かが知っていて使っているからこそ、言葉は流通しているのです。そして、使っている当人からしたら、その言葉は目新しくありません。

辞書は、ありとあらゆる日本語の意味を知っている人にとって無価値でしょうが、だからといって、一般的に辞書が無価値とはとても言えません。

もちろん辞書はかなり特殊な本の形態です。それでも、情報の「目新しさ」の基準は読む人依存であることにはかわりありません。「何も目新しい情報がなかった」という評価だけでは、その本が平々凡々なことしか書いていないのか、あるいは読んだ人がものすごく詳しかったのかを判断できないわけです。

でもって、本には想定読者がいます。

すべての人に向けて本を書くことはできません。本のページには限りがありますし、選べる表現も一つだけです(論文は論文、絵本は絵本)。誰かの方向に向けて書いた本は、別の方向の人には背を向けることになります。それは、同じ人間が同時刻に複数の場所に存在できないくらいどうしようもないことです。

よって著者は「目新しい情報がなかった」と言われることは、ある程度覚悟しなければなりません。

重なる読者

また、別の問題もあります。

私が書いた本を読んでくれている人は、私のブログも読んでくれている可能性があります。読者が重なっているのです。これは「検索すればネットで見つかることが書いている」問題とは別種の問題を含んでいます。簡単に言えば、同じことを二回読ませている可能性があるわけです。この問題は慎重に取り扱う必要があるでしょう。

ただし、実際的に言えば、それは本当の意味では大きな問題ではありません。おもしろいものは何度読んでもおもしろいですし、人の記憶はそれほど強くないのでノウハウ系であっても時間をおいて読み返すことには意味があります。それに、置かれる文脈が変われば、コンテンツの意味合いもまた変わってきます。

つまり、きちんと「手を入れれば」、読者が重なっていても惨事にはなりません。手を抜いたら? そりゃ、どの仕事でも同じでしょう。

まとめの価値

もう一つ考えたいのは、「無料の情報がまとまっているだけ」についてです。

今、あえて「だけ」と書きましたが、それは本当に小さな価値しか持たないのでしょうか。情報がまとまっていることは、思っている以上に価値が高いものです。特に情報が多すぎる時代ではなおさらでしょう。複数のブログを飛び回って、情報を探し回る時間を考えれば一冊でそれらにアクセスできるのはありがたいものです。

あるいは、私は『Evernote豆技500選』という本を書くこともできたかもしれません。このブログに書いた記事をフル活用すれば難しくないはずです。しかし、そのコンテンツは結局このブログと何ら変わりありません。

情報が一カ所にまとまっているというのは、アクセスのしやすさが確保されるだけでなく、そこに選別が働いている点も見逃せません。逆に言うと、選別が働いていない「まとめ」は、まとめとしての意味をあまり有していません。

他の価値

コンテンツの価値は、ほかにもいろいろあります。まったく同じ概念についての説明でも、片方ではうまく説明されており、もう片方ではうまく説明されていないかもしれません。一見同じようにみえて、この二つは明らかに価値が違います。

あるいはごく単純に、頭から最後まで楽しんで読めるのかどうか、といったこともあるでしょう。「情報」はそこにあっても、読む気にならなければ宝の持ち腐れと同じです。

ただし、このあたりの価値についてはフォトリーディング的なことをしている人にはあまり関係ないかもしれません。

さいごに

「本」は、情報が一カ所にまとまっており、選別が行われ、コンテキストが制御されています。頭から終わりまで読む中で、自分の「検索キーワード」になかった言葉と出会えることもあるでしょう。そうしたもろもの総体が、「本」の価値の一つです。

もちろん、その価値にいくら払うのかのジャッジメントは人によって違うでしょうが、完全に無価値であるとはとても言えそうにはありません。

書き手としては、自分が書く「本」の価値にいろいろ悩みはあろうかと思いますし、歴戦の著者&ブロガーでなければ、その悩みはいっそう強まることでしょう。私から言えることは、「考えなくてはいけない。されど考えすぎてはいけない」ということだけです。少なくとも完璧なものを手にすることはできません。しかしながら、自分が出せる最善のものを出す必要はあります。

さて、今回は「本」というコンテンツの形態をテーマとしましたが__私が物書きなので必然の選択です__、この問題は「コンテンツの価値はどこにあるのか?」というより大きな問題と結びついています。

無料でコンテンツを出しているうちは(あるいは間接的に収益を得ている場合は)、こうした問題について深く考える必要はありません。しかし、ひとたびそれに値段をつけようと思うと、本当にややこしい(あるいは厳しい)問題と直面してしまいます。

コンテンツの「価値」を守るために、情報を出し惜しみする手段ももちろんありうるでしょう。

ただ個人的には、それはあまりモダンな生存戦略ではなさそうな気がしています。徹底的に出した上で、そこから価値__と見なされるもの__を「作り上げる」こと。それができるなら、どこからだって価値を生み出していけます。たぶん、そういうのが大切ではないかと思う今日この頃です。

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