6-エッセイ

他人の恥を売るものたちとの距離

「まだ起訴もされていない人物を犯人呼ばわりして、償う準備はできているのか?」 __『ビッグデータ・コネクト』


モニカ・ルインスキーさんのTED動画をみました。

日本語のTranscriptから引用してみましょう。

他人を侵害することが原料となり それが効率的かつ冷酷に採集され 包装され販売されて 利益があがります 公然と辱められることが 商品になり 恥が産業になる ― そんな市場が生まれているのです

「他人を侵害することが原料となる」__おそろしい市場です。

どうやって儲けるのか? 答は「クリック」です 恥を公開すれば クリックが増え クリック数が増えれば より多くの広告料が手に入ります 私たちは危険なサイクルに陥っています このようなゴシップを クリックすればするほど ゴシップの背後にある 人々の暮らしには鈍感になり 鈍感になるにつれて さらにクリックしていくのです その間ずっと 誰かの苦痛の裏で 金を儲けている人間がいます

誰かを嗤う、誰かを罵る、誰かに憤る、誰かを罵倒する。
ただ一つ目にできる側面だけを取り上げて、その他すべてを切り捨てて。
なぜ、そんなものを考慮しなければならない。
そんなことをしたら「正々堂々」と嗤えないではないか。罵れないではないか。

そして、そのために「クリック」する。それが、誰かの利益を生み出す・・・・・・。

私が恥をかき、私が利益を得るのならば、まだそこにいくばくかの納得感はあります。少なくとも、何を恥として提出するのかをコントロールすることは可能です。

しかし、他人の恥を取り上げて、儲けている人はどうでしょうか。恥が生まれれば生まれるほど、広まれば広まるほど、「クリック」によってその人は儲かります。しかし、その当人はその恥をかくことはありません。ここには巧妙なコスト回避の構造がみてとれます。

自分で恥のコストを負担しなくてよいのですから、いくらでも儲けることができるでしょう。

なんとも、おそろしい市場です。


私たちはいつも 表現の自由については語りますが 表現の自由に伴う責任について もっと語るべきなのです 誰だって話を聞いて欲しいでしょうが 意図をもって話すことと 注目を集めたいがために話すこととの 違いは理解すべきです

自由である、ということは「何をやってもよい」ということではありません。「何でも選択できる状態である」にすぎないのです。

だから、自分で何かを選んだのならば、その結果もまた自分で引き受けなければいけません。自由は結果の免罪符にはなりえないのです。

これからまる一日、他人の恥で儲けているメディアにアクセスするのを控えてみるのはどうでしょうか。その結果、自分の心がどのような感覚を覚えるのか。それを確かめてみるのもよいかもしれません。

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