0-知的生産の技術

知的故障

最近ちくま学芸文庫で復活した『知的トレーニングの技術』という本があります。

知的トレーニングの技術〔完全独習版〕 (ちくま学芸文庫)
花村 太郎
筑摩書房
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なかなか面白く、有用な本なのですが、どことなく取っつきにくさが漂っています。一つには文体の問題があるのでしょう。難解とまでは言いませんが、少しばかりのかたさがそこにはあります。梅棹忠夫よりは松岡正剛寄り、といえばよいでしょうか。しかし、それはまあ慣れれば済む話です。

もう一つの難点は、内容のハードルがどうにも高い点です。

たしかにこの本にあるトレーニングをこなしていけば、ぐんぐん知的レベルをアップしていけるのでしょう。でも、それって簡単なことなのだろうか。そもそも、そんなことが可能なのだろうか、という疑問を持たないではいられません。特に私のような知的小市民であれば、なおさらです。

そこで、年代的には一応Classicの範囲内にあるものの、『知的生産とその技術 Classic10選』には、この本は含めませんでした。本文中で羽毛のように軽く触れているだけです。細かく読んだ方はお気づきでしょうが、巻末のブックリストにもリンクがありません。『知的生産とその技術 Classic10選』から『知的トレーニングの技術』へは直接飛べないようになっているわけです。

知的生産とその技術 Classic10選
倉下忠憲 (2015-09-29)
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というのは、もちろん脱線話なわけですが、知的生活のある部分を取り上げて、それを「知的トレーニング」と名付けてみると、いろいろ見えてくるものがあります。で、その一つが、「故障」の可能性なわけです。

不思議なことに、私たちは知的なトレーニングを簡単に扱います。やればやるほど、詰め込めば詰め込むほど、何かが向上していくような感覚があるわけです。

しかし、体を動かす場合は違います。準備運動はしっかりやるでしょうし、トレーニングのしすぎは体に負担をかけることも知っています。適切なトレーニングは、負荷を管理しながら行われるのです。でなければ、故障の連続となるでしょう。

では、このような体力的なトレーニングは、知的トレーニングのメタファーとしては機能しないのでしょうか。過剰な負荷によって故障が発生するのは体だけであって、知的なそれには無縁な話なのでしょうか。

それは、知的トレーニングが負荷を持つのかどうかにかかっています。

体力的なトレーニングは、細胞に負荷をかけ、それを一度「壊す」ことで、より強力な肉体を生み出す(というか再生される)ことが期待されています。だからこそ、やりすぎればその負荷が大きくなりすぎて、故障が発生してしまうわけです。

もし、知的トレーニングという表現があくまで言葉を借りているだけで、負荷を一切発生させないものであれば、どれだけやってもやりすぎということはないでしょう。しかし、何かしらの負荷を発生させているのならば、知的故障といったものが起こりえることが想定できます。

そして、ゆっくり考えてみると、ある種の知的トレーニングは負荷を有していると言えそうです。それは難しい本を読んでいるときに感じる、あの頭の痛さといったことだけではなく、ある種の哲学的思想に触れたときに感じる「自己の解体」の感覚も関係しています。自分の中にあるパラダイムがシフトするためには、その前段階として古いパラダイムが「壊され」なければならないのです。ここで発生している力を、負荷と呼ぶことはそれほどトリッキーなことではないでしょう。

本を読み著者の考えに触れること。あるいは自分の頭で考えようとすること。そうした行為には、おそらく負荷がかかっており、ある程度は段階的に行われなければならないのではないでしょうか。

短期間に無理な負荷を与えすぎれば、ものすごく単純な話として「本を読むのが嫌いになる」といった現実的な問題に直面する可能性がありますし、あるいは精神が戻ってこれない領域へ旅立ってしまうようなことも起こりうるでしょう。

私たちが知的トレーニングを簡単に扱いがち__やればやるだけ思想__なのは、おそらく精神(理性)が持つ無限性の幻想に関係しているとは思いますが、それはまた別のお話です。

ともかく知的小市民は、無理なトレーニングを避け、地道にこつこつと歩みを進めていった方が良いだろうな、というのが最近の私の考えです。知的大富豪への道のりは、きっとすごくすごく遠いのでしょう。かといって、知識の使い方がわからないまま知的成金になるのも、ちょっと困ったものです。

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