0-知的生産の技術

「知的」よサラバ、そして

以前、「知的故障」というエントリーを書いた。

「知的生産」や「知的生活」といったキーワードに付きまとう危うさを提示した記事だが、書き終えてみてさらに思うところが出てきた。今回はそれについて書いてみたい。

やや小難しい話にはなるだろうが、わりと大切なことである。

意識と時間

一般的な認識において、知的な活動というのは脳内で行われる、ということになっている。意識や理性と名付けられている現象の領分だ。その現象をなんと呼ぶのかは、人それぞれではあるが、ここではとりあえず「意識」としておこう。

意識は、無限性を帯びている。あるいは時間の有限性から解放されている。なぜならば、意識こそが時間の源だからだ。

もちろん、それは一種の幻想である。意識は、時間が経てばいずれ消滅する。しかし、意識の中では今日という日がいくども、それこそ無限の回数繰り返すような感覚がある。人が死ぬというのは知識であり、「自分が消滅する」という実感とは直接イコールでは結ばれない。

意識の無限性

結局、意識には時間が見えない。だから時計という道具が発明されたのだ。それは人類が鏡を発明したのと同じようなものだ。補助する道具なしには見ることすら叶わないのが時間である。
※むしろ時計が時間を発明したのかもしれない。

時間(感覚)の消失は、いとも簡単に無限性へと結びつく。なんでもできるような気がするのだ。

ドラゴンクエストというゲームで、勇者が世界を救えるのは、彼に無限の時間が与えられているからだ。どれだけ宿屋に泊まっても、魔王が世界征服を完了させてしまう恐れはない。また彼が老いることもない。こうしたRPGの世界観は、私たちの意識の世界観をそのまま写している。

しかしながら、実際のところ、意識は肉体と共にある。肉体がなくなれば、意識も共になくなる(魂は残るかもしれない)。この感覚としての無限性と、実体としての有限性の乖離がやっかいな問題を引き起こす。「知的故障」という記事で指摘したことは、概ねそのようなことだ。

「知的」とのあたらしい関係性

「知的〜〜」と表現されているものはいくつもあるが、そのどれもが無限性の響きを有している。「知的トレーニング」と言ったとき、本を読めば読むほど(無条件に)賢くなれる、といった幻想を抱きがちなのが代表例だろう。

しかし、それを肉体的なトレーニングのメタファーで考えてみると、「故障」という危険性が浮かび上がってきた。これは無限性の剥離であり、意識にとってはあまり見つめたくない事実かもしれないが、やっぱり事実なのだ。

簡単に言えば、「知的〜〜」と呼ばれるものは、頭でっかち(あるいは意識でっかち)になりすぎているきらいがある。肉体のことがいともたやすく忘れ去られていくのだ。それはつまり、生活を忘れるということであり、行き着く先が過度のインテリ信仰である。

それを避けるためには、「知的〜〜」に含まれるものを、いちどすべて肉体的なメタファーから点検してみることが必要ではないだろうか。たとえば、「情報のインプット」を、情報摂取というように食事にたとえて考えてみる、ということだ。そうすれば、カロリーとか栄養素の偏りとか外食の危うさとかスイーツの魅力と弊害といったことが明らかになる。

さらにその上で、それらの行動をどのように日常生活に織り込んでいけばいいのかも見えてくるだろう。

言ってみれば、「知的〜〜」と呼ばれるものを、実際の生活へと還元していこう、という試みである。言い換えれば、社会に生きる誰にでも手の届くものにしようという挑戦である。

おそらくそれは、少数の知識人に権威を与えるインテリ主義とも、かといってどこにも権威を与えない知的アナーキズムとも違ったものになるだろう。

「知的」に潜む権威を相対化し、その上で市民それぞれがそれを獲得していく。「知的」をありがたがるのではなく、それを身のうちに取り込んでしまう。知性主義のジンテーゼといえば大げさだが、考える生き方への道のり、くらいにはいえるかもしれない。

さいごに

結局の所、考えることと生きることを切り離してはいけないのだ。しかし、知識を(あるいは知的を)ありがたがることは、容易にその切断を促してしまう。意識が持つ無限観も、それに拍車をかける。

「知的」なるものは、ありがたがるものではなく、日常に寄り添うものである。梅棹忠夫氏は「思想はつかうべきものである。思想は論ずるためだけにあるものではない」と言った。その通りだろう。清水幾太郎氏は『本はどう読むか』の中で次のように書いている。

(前略)思想というものを最終的にテストするのは、家庭という平凡な場所であると思う。活字の世界に生きるだけの純粋思想なら、いくらでも急進的になれるし、いくらでも破壊的になれる、けれども、それが本当に社会を変革する力を持つためには、それが家庭という場所へ入り込み、そこに腰を据えなければならない。

もし、「知的」という言葉が祭り上げられたことによって、かえって「家庭」から遠ざかっているのだとしたら、それは悲しい出来事である。

「知的」にサラバするのは構わない。そのかわり、別の何かとコンニチワしなくてはならない。それが悲しみではない何かであることを願うばかりだ。

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