アメリカの哲学者エリック・ホッファーの著作に触れたのはこれが初めてだった。
筑摩書房
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彼が「沖仲仕の哲学者」というクールな二つ名を持っていることは後から知ったし、象牙の塔にこもるでなく徹底的に在野であろうとした哲学者であったことも、柄谷行人の解説ではじめて知った。ようするに、彼については何も知らなかったわけだ。
たまたま営業最終日のリブロ池袋をうろついていたら、表紙が私に呼びかけてきたのだ。そういうことってたまにある。それに「現代という時代の気質」という邦題もいい。興味の横腹をこちょこちょとくすぐられる。厚みも『星の王子様』ぐらいしかないし、出張先のカバンにだって楽に収まるだろう。そんな気持ちで買った本だったのだが、なかなかどうしてアタリの本であった。
虚無感が引き起こすもの
原題は「The Temper of Our Time.」。彼が指す「私たちの時代」とはいつ頃のことだろうか。本書に収められた文章は、いくつかの雑誌に掲載されたものだが、どれも年代は1964年〜1966年となっている。2015年から引き算すれば、50年ほど前の話だ。
『コンテナ物語』(マルク・レビンソン著 日経PB社)によると、コンテナを使った海上輸送が始まったのは1956年。単純に考えて、そこから10年も経てば、多くの港がコンテナ用に最適化__ようするに機械化__が進められていたことだろう。沖仲仕を続けていたホッファーも、その変化を目の当たりにしていたはずだ。
実際、二つ目に収録されている「オートメーション、余暇、大衆」では、そうした変化がもたらす影響が論じられている。
さて、現場で働いている彼は、機械化の影響をどのように論じたのだろうか。「機械を追放せよ! 我々には賃金が必要だ!」__もし彼がそんな話を始めていたら、私はページを繰る手をそこで止めていただろう。彼は失業者が増えることを見越していたが、彼の懸念は失業者の貧困ではなかった。
二千万ないし三千万の失業者数の予想に関して私が心配したのは、彼らが飢えるということではなかった。私は、余剰人口は快適な生活はもちろん、ものを買ったり魚釣りに行ったりするゆとりまである資金を与えられるだろうと想像した。
では、何が彼の心の足を引っ張ったのだろうか。
私が心配したのは、熟練したきわめて有能な人々が、自らが有用で価値があるという感覚をもてずに徒食する、という予想のせいだった。
それがどのように恐ろしいことであるのかは、おそらくオウム真理教の事件を例に挙げてもよいと私は思う。彼はこう続ける。
無為を余儀なくされた有能な人間の集団ほど爆発しやすいものはない。そのような集団は過激主義や不寛容の温床になりやすく、いかに不合理で邪悪であろうとも、壮大な行動を約束してくれるならどんなイデオロギー的改宗でも受け入れてしまいやすいのだ。
私はこの指摘が持つ香りを、2015年の現代でもかぎ取ることができる。ネットに視線を移せば、その香りはいっそう強くなる。
ホッファーと現代
私が驚くのは、彼の思想が徹底的に「人間存在」に立脚している点だ。
その存在は、学者が頭の中でつくりあげる「人間らしきもの」ではなく、現実に生きて社会を構成しているリアルな「人間」がベースとなっている。だからこそ、彼の哲学はしっかりと地に足のついたものになっているのだろう。
そこには、空虚な理屈や曖昧な理想から生まれる「かくあるべし」はどこにもない。生きている人間の、生きている思想がそこにはあるのだ。だからこそ、本書は現代でも十分読みうる内容となっている。
さて、1960年代の人類が経験してきたものを「急速な機械化」だとするならば、2010年代の私たちが経験しているのは、「急速な情報化」と位置づけられるだろう。ホッファーは「未成年の時代」で次のように指摘する。
機械時代の苦悶はしたがって機械そのものから生じるのではなく、何百万という農民の急速な都会化に原因する社会的変調から生じるのである。
現代風に言い換えれば「何千万という市民の急速な情報化に原因する社会的変調」といったものが、起こりえるはずである。いや、もうそれは実際に起きているのかもしれない。
成熟には閑暇が必要なのだ。急いでいる人々は成長することも衰微することもできない、彼らは永遠の幼年期の状態にとどめられているのである。
おそらく私たちは50年前よりはるかに急いで生きてる。それが「現代という時代の気質」なのだ。
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