7-本の紹介

【書評】ネットフリックスの時代(西田宗千佳)

2015年9月から日本でもサービス提供をスタートしたNetflix(ネットフリックス)。いわゆる定額制の動画ストリーミングサービスである。映画やドラマ、それにアニメといったコンテンツが月額650円程度からのプランで見放題となる。

私もサービス開始当初に会員登録し、そのあまりのすばらしさに即日解約したほどである。皮肉ではなく、こんな便利なものがあったら、私の仕事がまったく手に付かなくなるだろうと判断したのだ。こうして文章を書くパソコンで、気になるアニメがいくらでも見られる危険性は、先回りして防いでおくぐらいの脅威であることは疑いようもない。

Netflixは、私の作業空間においても脅威なわけだが、既存のメディア産業においても大きなインパクトをもたらす。それを冷静に観察したのが本書である。

内容はコンパクトにまとまっており、文体も読みやすい。それ以上に、視点のポジションが良い。「既存のメディアはダメだ」というつまらない論調でもないし、「新しいメディアなんて流行りません」という妄想でもない。好意的な視点を持ちながらも、バランスのとれた視野となっている。

映像メディア関係者だけではなく、何かしらコンテンツを作る人や、私たちを取り巻くメディア空間に興味がある人なら、少なからず得るところがある本だろう。

スタイルの変化が引き起こす変化

メディアに関わる人たちを、無理矢理3つのレイヤーに分ければ、「受け手」「作り手」「送り手」となるだろう。

「受け手」はいわゆる視聴者であり、「作り手」はクリエーターだ。「送り手」は、プラットフォーマーとここでは呼んでおこう。

既存の映像メディアでは、プラットフォーマーが圧倒的に強力だった。それは映像コンテンツを作成・配信するためのコスト構造に起因しているとは思うが、その話はここではどうでもよい。ある番組を見るためにはその時間にテレビの前に座っていなければいけない、という拘束的な状況が、ある種プラットフォーマーの強さを__もはや権威といってもいいくらいだ__象徴している。

しかし、インターネットとスマートフォンがその風景を変えてしまった。技術が権威を失墜させつつあるのだ。もはや、それにしがみついていることはできない。当然のように、プラットフォーマーも視聴者の視聴スタイルに沿う形で変化していかなければならない。Netflixなどの定額制動画ストリーミングサービスの登場も、その変化に含まれる一つの事象である。

だからこれは良い悪いの問題ではないのだ。単に起きてしまった変化にどのように対応するのか、というきわめて現実的な話である。そして、現実的な話から目を背けていると、どんどん状況は悪化する。逆に、きちんと変化を見据えた手を打てるところは、生き残るだろう。

テレビ局について考えてみても、まったくテレビが見られなくなるということは考えにくいし、また番組を制作できるならば、それを別のプラットフォーマーに販売してもいい。企業の規模を同じレベルで維持できるかは検討の余地があろうが、まったく先行きがないわけではない。映像メディアが消費されている、という状況が続く限り、存在する余地を見いだすことは可能だろう。

これまで無料で閲覧できることが強力な売りであったYoutubeも、広告なしで閲覧できる有料サービスをアメリカで開始している。それはウェブ広告の成長的限界を示している気がするが__人々がネットに慣れてきて安易に広告をクリックする人が減っているのだろう__、それはともかくメディア消費と有料という関係は、消えていくのではなくむしろもっと広がっていくだろう。

欠かせない人力

本書は「ネットフリックスの時代」と銘打ってはいるが、Netflixの話ばかりではない。Netflix的なものが広がっていく情勢を解説しているので、類似サービスであるHuluやテレビ局などの話も登場し、そのどれもが興味深い。たとえば、以下はdTVというサービスの解説で出てくる文章である。

同社は1000種類以上の「フィルムメタ」と呼ばれる属性情報を人力で設定している。

私はこの部分を読んで背筋が寒くなった。人力? もう少し続けよう。

エイベックス側では、フィルムメタをつけるためのルールを設けて、コンテンツひとつひとつにそのルールを使ってフィルムメタをつけているのだという。同社はその職種を「フィルムアナリスト」と呼んでいる。

書籍で言えば、書誌情報といったものはアルゴリズム的に処理されているのだろうが、内容に関するものは人力でメタ情報を設定しているというのだ。もちろん、これは欠かせない行為だろう。なんといっても映像メディアを最終的に消費するのは「人」なのだ。「人」の感覚に沿ったメタ情報でない限りは、あまり役には立たない。

こうしたメタ情報は、視聴者にオススメコンテンツを提示するときに使われるらしい。「アクション」「戦い」「銃器」「一人」を好む人なら、『ランボー』や『ターミネーター』を勧めるが、『プライベート・ライアン』は勧めない、といったことだろう。作品につけたメタ情報が、(人間の感覚に沿っているという意味で)正確で、かつ数が多いのならば、こうしたオススメは機能するだろう。

詳細は不明であるが、ネットフリックスもdTVと同様に、作品を見てタグ情報を設定するスペシャリストを抱えており、ある種の人海戦術で対応しているという

私が気になったのは、Amazonはどうなのだろうか、という点だ。さすがに書籍は数が多すぎて、こんなことをやっていられないだろう、というのが私の意見だが、逆に言えばこれをクラウド人海戦術すれば、すばらしいレコメンドサービスができるかもしれない。

さいごに

本書のどこを切り取っても「データ」の話が出てくる。

映像コンテンツそのものも「データ」ではあるが、上記のようにそこに添付されるメタ情報も「データ」である。さらに、視聴者が何をどのくらい(どの端末で)見たのかも「データ」である。こうしたものが扱えるコンテンツ・プラットフォーマーやクリエーターは、それを軸にどんどん進化(あるいは変化)していくだろう。

ただタグ付けが人力で行われていたり、あるいはネットフリックスのオリジナルコンテンツがデータ至上主義ではなく(ある程度は)クリエーターに任されている点からも考えて、「データ」とアルゴリズムさえあれば万事うまくいく、というわけではないことが見えてくる。

人の余地はいくらでもあるし、むしろその余地を活かすことが、オリジナルコンテンツのオリジナルさを支えることにもなるのだろう。たぶんそれは映像コンテンツだけでなく、他のコンテンツにも敷衍できるはずだ。

さて、出版業界はどうなっていくだろうか。我がごとながら楽しみである。

▼その他リンク:
ネットフリックスの時代 配信とスマホがテレビを変える | 講談社現代新書「ネットフリックスの時代」

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