0-知的生産の技術

「考え方」の手法が持つ二要件

すばらしい記事を読みました。

はじまりのフリーライティング (第4回)

「ガレージ」というメタファーを用いながら、フリーライティングの進め方が解説されています。とてもバランスの良い記事です。

さて、ここで言う「フリーライティング・ガレージ」は、私が言う「知的生活における(概念上の)書斎」に対応しているかと思います。その対応関係についてはいずれ掘り下げてみたいところですが、今回の考点はまた別にあります。

考えのシミュレート

上記のような手法は「フリーライティング」と呼ばれていますが、「文章の書き方」よりも、「考え方」あるいは「考えの整理の仕方」に位置づけられそうです。たとえば、KJ法なんかもそうですね。こざね法も同様です。

そうした手法の解説を読むたびに感じるのは、「ああ、これは脳が奥の方でやっていることの、シミュレートなんだな」ということです。

シミュレートというと少し外れているかもしれませんが、相似の関係にある、ぐらいには言えるかもしれません。

脳の奥、ツールの上

私が文章を書くときには、すでに紡いだ一文の内容に近しいこと・関連あることを脳の奥底から引っ張り出して配置していきます。ポケットに手を突っ込んで、形の合うレゴブロックをがさごそと探すような感覚です__もちろん、それは無意識下で行われているわけですが。

つまり、何もツールを使わずに「考えながら文章を書く」ことも、ツールの補助を受けながら「考えて、文章を書く」ことも、基本的には同じことをしているのです。というか、それが同じでない限り、どこかに欺瞞が混ざり込んでしまうことでしょう。

ただし、脳内では、意味空間の三次元(あるいは四次元)でそれが行われているのに対し、こうした手法では一次元ないしは二次元でそれが行われています。違いと言えばそれが違いで、私が相似と言ったのはそういう意味です。アプローチとしては似ているが、完全に同じではないのです。

次元を減らすことで、無意識に比べれば情報処理能力の劣る意識にもそうした行為が行えるようになる。そんな風に捉えられるかもしれません。

おわりに

まとめてみると、「考え方」あるいは「考えの整理の仕方」に関する手法は、

・脳の無意識の動きに沿ったものでなければならない
・しかし無意識とまったく同じでは意識が扱えない

という二つの要件を持っていそうな気がします。

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