6-エッセイ

人生と麻雀と

メンタルモデル、とでも表現したらいいのでしょうか。あるいは、パラダイムなんて言い方もできそうです。

どういう呼び方であれ、「どのように認識しているのか」は行動や思考(発想)に大きな影響を持ってきます。


さて、人生は麻雀のようなものです。少なくとも、私はそのように捉えています。「人生において大切なことは、麻雀とコンビニとパチスロとデイトレとMTGと村上春樹とローバート・B・パーカーに学んだ」という本が書けそうですね。ええ、回りくどいことは承知しています。


麻雀というゲームは、完全情報ゲームではありません。プレイヤーからは見えない情報がたくさんあります。

たとえば、自分が次に持ってくる牌がわかりません。相手の手牌もわかりません。将棋なら、盤上の駒だけでなく、自分や相手の手持ちの駒はすべてオープンなわけですが、麻雀ではそんなことにはなっていません。

もちろん、人間がすべからく死んでいき、世のエントロピーが増大する方に向かうように、麻雀でも「全ての牌の種類」は前もって確定されています。よって、局が進行すればするほど、見えてくる牌の数も多くなり、そこから引き算的思考で、「自分が何を持ってくるだろうか」を推測はしやすくなります。

たとえば、場に「東」という牌が4枚見えていたら、(麻雀ではすべての牌が4枚ずつしかないので)、その局で「東」を引いてくることはもうありません。そこではある程度確定的な情報が生まれてきます。が、やはり「自分が何を持ってくるのか」については確定できません。何が起こるのかはわからないのです。


麻雀で鳴きという行為を行うと、自分の手牌の一部をオープンすることになります。どんどんどんどん鳴いていけば、最後の最後には手牌は1枚になります。葉っぱで裸体を隠すようなものです。でも、やはりその最後の一枚は見えないのです。全員が目一杯全力で鳴いても、自分から見て3枚は決して見えない牌として残ります。完全情報ゲームにはならないのです。

また、局が進めば山が崩されていき、どんどん牌が明らかになってきますが、その局最後の一枚の段階になっても、まだ見えていない部分が残ります。王牌と呼ばれている牌ですが、そこは局が終了しても開かれることがありません。つまり、いまわのときですら、すべてが明らかになることはないのです。

自分が次に持ってくる牌もわからない。相手の手牌もわからない。そんな状況の中で進めていくのですから、どうしても確率的な考えが出てきます。場に2枚見えている牌と、場に1枚しか見えていない牌なら、後者の方が持ってくる可能性が高いだろう、といった考え方です。

でも、これは「勝利の方程式」とはほど遠いことに気がつかれるでしょう。なぜならば、見えていない牌が、相手の手牌にあるのか、牌山にあるのか、それとも王牌にあるのかは決められないからです。よって、常に戦略は「可能性の問題」になります。いつでもひっくり返される要素がそこにあるのです。


確率は所詮確率でしかありません。あがれる牌が1種類2枚しか残っていない待ちと、3種類10枚も残っている待ちで、前者の方が早くあがりを拾うこともあります。それも一回や二回ではありません。こういう状況にぶち当たると、「なにくそ」とイライラしたくなる気持ちも湧いてきます。でも、やはり長期的に見れば、3種類10枚で待っている方が上がれる回数は増えます。

逆の言い方ができるかもしれません。3種類10枚の待ちが有利になるのは、長期的な視点においてのみなのです。だから、懲りたり飽き足りせず、3種類10枚を淡々と追求し続けていれば、いずれ徐々に成果は積み重なっていきます。確率、というのは本来そういうものです。


  • 見えない情報があることを知り、それを受け入れる
  • だからこそ、想像力を大切にする
  • さらに、目に見える部分での確率も重視する
  • 確率を活かすには長期的なスパンで望む
  • 大ダメージを受けて一発退場しなければ、チャンスは回ってくる
  • メンタルが死んでいると、どんな戦略も役に立たない

ほかにもいろいろ書けそうですが、今日のところはここまで。

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