0-知的生産の技術

書くこと、考えること、いいねボタン

書くことは、考えることです。

頭の中身を、言葉を使いながら定着化しようと試みていると、ときどき「思いもよらない」言葉が飛び出てくることがあります。そうか、自分はこういうことを考えていたのか。あれは、そういうことだったのか。そんな後付けの理解(あるいは整理)が生じてくるのです。

その理解(ないしは発見)は、嬉しいものではありますし、心の中がほんの少しだけすっきりしたような感覚も得られます。そういう体験は、一つでも多く積み重ねていきたいと感じます。

しかし、思考や感情を言葉として定着化しようとする試みは、案外疲れるものです。脳のエネルギーを要求します。そして、脳は倹約家です。

人類の欲望を実現化することが使命であるかのようなテクノロジーは、そのエネルギー消費を抑制する方向に進歩してきました。それ自体は悪いことではないのでしょう。そのテクノロジーで生まれ出たものがたくさんあるはずです。

でも、その逆もまた然りです。

回避される行為

拙著『ハイブリッド読書術』で、以下のように書きました。

 Facebookで何かを書き込むと、他の人からコメントをいただける場合があります。そのコメントに対して、私もコメントを返すことができるのですが、どうにもうまく言葉にまとまらないとき、つい「いいね!」を押して済ませてしまいます。それだけで、自分はそのコメントを読みました、そして好感を持ちましたということを伝えられるので非常に便利です。しかし、私の頭に浮かんだ「もやもや」は言葉にされることなく、消え去ってしまいます。苦労せずに済んだ代わりに、何か微妙なものが全て失われてしまったわけです。
 便利さの対価として私たちが支払っているものには十分注意する必要があるでしょう。

「いいね!」というボタンは非常に便利です。脳のエネルギー消費を抑えて、しかも他者とのコミュニケーションを成立させます。関係する他者の数が増えていけばいくほど、そうした節約がなければどうしたってやっていけない事態が生じます。だから、基本的には良いことなのです。

でも、「基本的に良いこと」と「それだけで良いこと」は同じではありません。その点には注意が必要でしょう。

「書くこと」を避けることで、「考えること」が避けられているかもしれません。

ボタン化する表現

以下の記事では、ボタンが増えたFacebookについての考察が語られています。

[L] 「リア充化」するFacebookと、取り残される感情 | Lifehacking.jp

一方で、私たち自身はボタンに還元できない感情をたくさんかかえている人間で、調子のよいときもあれば、友人のはげましや促しを欲することもある弱い人間です。

注目したいのは「ボタンに還元できない感情」という部分です。

先日のFacebookの新機能追加で、「いいね!」に加えて新規に5種類のボタンが導入されました。喜び以外の感情も、ボタン一つで表現する手段を私たちは手にしたわけです。しかし、これだけで十分とは誰も思わないでしょう。

だったら、ボタンが表現するものをより機微にしてその数を256個にすれば問題は解決するでしょうか。あるいは512個にすれば。なんとなく、それだけボタンがあれば、自分の感情を最適に表現できるような気がするかもしれません。パソコンのカラーピッカーで好みの色を選ぶように。あるいは、音波を細かく刻んで数値に置き換えるデジタル音源のように。

もしかしたら、ギリギリまでは近づけるのかもしれません。でも、接することはなさそうです。少なくとも「これまで誰も抱いたことがない感情」は、事前に準備されたボタンをポンと押すだけでは表現しようがありません。それは自らが言葉にするしかないのです。脳のエネルギーを大量に使いながら。

そして、そうして使われたエネルギーが存在の輝きとして表出することになります。

表現テクノロジー

「ボタンに還元できない感情」というときの「ボタン」とは一種の象徴です。そこにボタンとして実装されているものだけではありません。それはテンプレート的な表現すべてを含んでいます。テンプレートだけで完結する表現の総体なのです。

それは、逆に言えば、「考えること」を抜きにした表現ということです。その表現のフタをぱかっと開けて中を覗いてみても、誰の姿を認めることもできないでしょう。

ではテクノロジーは人の存在を消していくのでしょうか。

もし私が一日だけFacebookの実装をいじれるなら、512個のボタンを配置し、それらを同時に複数回押せるようにするでしょう。「この投稿は面白かったので、いいね!を50回、超いいね!を2回、うけるねを13回、もうちょっと見たいを4回を押そう」なんて具合に。面倒そうですよね。でもって楽しそうでもあります。

楽にいろいろなことができるようになることは基本的に肯定しても良いでしょう。問題は、私たち人間が矛盾を含んだ存在ということです。それは片側では、存在したいと強く願いながら、その裏側では、消え去りたいと願っています。そのバランスの中で、人は生きています。

テクノロジーは、ときとしてそのバランスを崩すことがあるのでしょう。どちらの側にせよ、欲望の片側に荷担しすぎるのはよろしくありません。その点には注意を払いたいところです。

さて、こんな結論になるとはまったく思いも寄りませんでした。

考えることは、存在することです。

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