ココニイルコト

 急に降り始めた雨は、公園にへばりつく熱気を少しだけ遠ざけていた。たいした雨ではない。傘を差したら、きっと滑稽に見えただろう。そんな程度の雨だ。夏特有の、気まぐれの雨降り。錯覚ほどの雨降り。
 ベンチが少し湿っていたので、僕は公園を歩くことにした。さして広くはないが、木々の表情は観察して楽しめる彩りがある。どれも同じ種類の木なのに、そして遠くから見ればどれも同じなのに、近くで見ると同じ木はひとつとしてない。枝振りから表面の模様まで、さまざまに異なっている。
 僕は木のそばに寄り、その表面を撫でてみる。独特の冷たさが手のひらに感じられた。金属のような底冷えする冷たさではない。空洞にポーンと音が反響するような、そんな冷たさだ。その響きには、存在感があった。
 ベンチに視線を戻すと、そこには誰も座っていなかった。でも、いつものようにふらふらと近づいてくる斉藤さんの姿が目に留まった。どうやら彼はまだ僕には気がついていない。さきほど僕が躊躇したベンチに腰を下ろし、斉藤さんはタバコに火を付けてからふ〜っと吐き出した。
 僕は2秒ほど迷い、斉藤さんが座るベンチに向かう。「こんにちは」
「やあ、こんにちは。気持ちの良い雨だね」
「そうですね」僕もベンチに座った。
「迷える若人、という感じではなさそうだね」斉藤さんは、ハハっと笑う。「目がしっかり前を向いている」
「たしかに迷いや悩みではないかもしれません。気に掛かるのは、存在することと生きることの違いなんです」
「そして、君はその答えをもう持っているわけだ」
「うまく言葉にはできませんが」
 斉藤さんは煙を吹き出し、トントンと空き缶にタバコを叩いてから言った。
「大切なことなんて、そんなに簡単に言葉にできるものじゃないよ。むしろ、安易に言葉にしてしまえば、何かが逃げてしまう。言葉の誕生はコミュニケーションを飛躍的に向上させたが、何もそれは万能の器ではない。使う僕たちにも欠陥がある。どちらにせよ、言葉にしきれないのなら、それをきちんと心に抱えておくことだ。それは、君の責務だと言ってもいい」
「責務、ですか」
「おおげさだと思ってるんだろ」斉藤さんは苦笑する。「その気持ちはよくわかるよ」
 でもね、と斉藤さんは続ける。
「言葉にはそれくらいの重みがあるのさ。質量は0でもね。君はさまざまな言葉に影響を受けてきた、そうだね」
「はい」
「そして君が口に出す言葉も、同じように誰かに影響を与える。もちろん、その誰かには、未来の君自身も含まれている。何かを言葉にすることは、器を与えることだ。あるいは、名前と言ってもいい。もし君が万物の創造者だったとしよう。そして、これから何かをこの世界に誕生させようとしている。君のさじ加減ひとつで、それは50%の力を発揮するかもしれないし、100%の力を発揮するかもしれない。そこには責務があると思わないかい。何かを生み出すものとしての責務が」
「でもそれって、自由じゃないんですか。生み出すものの裁量というか」
「それは傲慢というものだよ。万物の創造者だろうと、この世界の一部に過ぎない。創造者は所有者とは違うんだ」
 斉藤さんは押しつぶしたタバコを空き缶の中に放り込み、内ポケットから箱を取り出した。次の一本を口にくわえて、カチっ、カチっと火を付ける。しかし、なかなかうまくいかない。小雨でも、それなりに存在感を示している。
「これは、もう今日は吸うなってことかな」
 斉藤さんは、少し憎々しげに空を見つめた。取り出したタバコを箱の中にしまう。僕は、ふと浮かんだ疑問を口に出す。
「この世界の所有者って一体誰なんでしょう」
「God only knows.」斉藤さんは言う。「でもだからこそ、我々は生きていくんだろう」
 斉藤さんはそれで言葉を終えた。僕も、それについてしばらく考えていた。
 口寂しい斉藤さんは、珍しく鼻歌を歌っている。レトロなロックだが僕にはタイトルはわからない。そのフレーズが、メリーゴーランドのように何度も頭を巡っていく。
 よくわからないほどの時間が流れたあと、僕も空を見上げた。雨はもう、その姿を消していた。代わりに、青く晴れた空には七色の橋が架かっていた。
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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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