情報カードを使うことは私たちに何をもたらすのか。
カード法は、歴史を現在化する技術であり時間を物質化する方法である。
これは一体何を意味するのか。
一つには、情報を固定すること。カードという物質、それも(比較的)固定的な物質に情報を載せることで、情報そのものを固定化する。そうすることで、それらを保有できるようになる。
言い換えれば、「向こう側」にあった情報を、「こちら側」に持ってくる。それが情報カードを使うことの一つの意味。
記憶は失われやすい。しかし、トリガーがあれば思い出せる。固定化のメリットはそういうところにもある。
また、固定化することで、「一つにまとめ」ることができる。
Aという本にアイデアのメモを書き込む、Bという本に着想のメモを書き込む、自分の手持ちのノートに小説の構想を書き込む。バラバラだ。カード化し、カードボックスに集約することで、それらを一つにまとめられる。効率化もあるが、情報同士の相互作用も期待できる。
この際に、「同じサイズのカードを使う」ことによる、規格化も期待できる。規格化されていないと、扱うときに不便だ。
カード化することによって、操作が可能になる。言い換えれば、情報の操作を、カードの操作に置き換えることができる。メタファーとしての情報操作。あるいは、情報操作のアウトソーシング。
脳内で情報を組み替え、新しい構造を見出す作業は、激しい脳内エネルギーの消費をもたらす。というか、あるレベルになると特異な人でない限り脳内で完結させることはできない。カードを使うと、それが少し容易になる。
情報同士のつながりや流れを、空間配置上で表現することで、そこにある何かを見抜く。それは、私たちが文章を書くことで、はじめて自分の心の中にあるものに気づけることに少しだけ似ている。
書き留めてきたカードを、「くる」ことは、過去の自分の着想にランダムアクセスするようなものだ。そこでは、想起が促される。情報を固定したおかげで、そのようなことが可能になる。そして、それらを並び替え、配置し、入れ替えることで、過去の自分の着想がミキサーにかけられる。
その作業を行っているのは、やっぱり自分の脳だ。
私たちは、カードに情報を書き留めることで脳からその情報を一時的に出し、カードを読み返すことで再びその情報を脳に戻している。発想における、致命的な、根本的な、根源的な作業を行うのは、誰でもない自分の脳なのだ。だから、情報カードは自分の手で、目で、頭で書き留めなければいけない。
上記のようなことを満たせるツールなら、別に情報カードでなくても良い。「カード法」はカード以外にも敷衍できる。
重要なのは、情報を書き留めること、つまり「記録を作る」こと。そして、作った「記録を使うこと」。この二つに尽きる。
そのどちらの作業においても、自分の脳が関わっているのならば、そこには立派なプライベート・ライブラリが広がっているだろう。あるいは、記憶の宮殿ではなく、記録の高層タワーかもしれない。高層の構想。それを組み立てるには、記録の力が必要である。
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