フリーライティングについての断章

フリーライティングについての連載を読みました。

Free writing | gofujita notes

実に素晴らしい連載ですので、みなさんもぜひご覧ください。


第0回、あるいは番外編にあたる以下の記事には、次のようなことが書かれています。

フリーライティングで生活のアウトラインを育てる. August 8 2015

そしてフリーライティングには、それ以上の機能があることも、たぶん広く知られている。それは、気づいていないことも含めた自分の頭の中にあることを、文章を書くことをとおしてはっきりさせながら考えを進める効果、と呼べばいいだろうか。

たぶん、この効果こそが「文章を書くこと」の根源にあるのではないか、私はそんな風に考えています。


スティーブン・キングは『小説作法』(新訳は『書くことについて』)の中で、文章とはテレパシーである、と書きました。自分の頭の中に広がる風景を、他の誰かの頭の中に送り込む手段。それが文章というわけです。

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相手は、文章を通して、あなたの頭の中をのぞき込みます。そして、その視線は、文章を書いた(あるいは書いている)自分自身も共有することになるのです。


何かを文章として表現する場合、それが何なのかを自分自身の中で固める必要があります。テレパシーを使って相手に心象風景を伝える場合でも、できるだけ鮮明にその心象風景を思い浮かべる必要があるでしょう。それと同じことです。

真摯に文章を書くことは__ここが大切なポイントです__自分自身の頭の中をのぞき込むこととイコールです。頭の中にあることを文章化しようと思えば、どうしても鏡をのぞき込まなければなりません。それを避けて通ることはできないのです。

取り繕った文章の場合はそうではありません。それは借り物の言葉であり、思考であり、哲学であり、思想であり、価値感です。それを人は「薄っぺらい」と呼びます、あるいはハリボテとも。そこには表面以外何もないのです。肉だけを借りてきて、骨を作らなかった人造人間のようなものです。


思い返してみると、私の生活の中にはさまざまな形でフリーライティングが入り込んでいます。

たとえば、「ほぼ日手帳」。私はそこにその日起きたことや考えたことを書いています。たいていは、タイムラインにその時間とった行動(カフェで作業、新しい本を買った、ゲーセンに行った)を書き込んでいるときに、ふと思いついたことを書き付け、それがそのままずるずると長くなっていく。そんな形が多いでしょうか。

広い定義で捉えれば、これもフリーライティングの一つです。

それは自分の心を整理し、頭をスッキリとさせ、何かを見据えたような感覚をもたらしてくれます。精神の調律。心のメンテナンス。表現はなんでもよいのですが、他の行為では代替できない何かがそこにはあります。

こうして書いているブログの原稿一つ取ってみても、私にとってはフリーライティングの延長線です。もちろん記事にテーマはあります。それに、誤字脱字もほとんどありません(これは後から推敲しているからですが)。でも、感覚的にはこれはフリーライティングです。

なぜならR-styleにはあらかじめ準備されたテーマがないからです。「こういうことを書かなければいけない」という前提もありません。その日、私がふと思いついたことや考えたことを、掘り下げたり、広げたり、茶化したり、虚構にしたり、関連づけたりして、文章に起こしているだけです。

言うならば、フリーライティングの一部を「ブログ原稿」として切り取っている、と表現できるかもしれません。


生活の中に「文章を書くこと」を取り入れること。これには素晴らしい効果があります。

それは目を血走らせてブログを怒濤のごとく更新するようなものではなく、むしろもっと自然な形で「自分の頭を使って考えること」を日常に取り入れる、というのが近いのかもしれません。

私たちの日常は、情報に取り囲まれています。しかも、その大半が説得的情報です。これを買いなさい、これがお得ですよ、こうしないと損ですよ、これが正しいのです、あの人は間違っています、ぜひ私の壺を買ってください……。それらは、できるかぎり人が考えなくても済むように導いてくれます。

説得というのは、つまりはそういうことだからです。誰かにものを売りつける場合、相手が何も考えない人であることが望ましいのは想像に難くないでしょう。説得というのは、他者のコントロールなのです。

感情を過剰に煽るような情報も似たようなものでしょう。理知的な議論を推進するのではなく、感情的な言い合いを勃発させる。つまりは、思考を限りなく停止させる方向にメディアは推移しつつあります。少なくともその予兆めいたものはあります。

こうした流れにただ身を任せていれば、「自分の頭を使って考えることは」どんどん少なくなっていくでしょう。それはつまり、「自分」というものがどんどん少なくなっていくこととイコールです。

それで心の安定がもたらされるのであれば、それはそれで一つの選択でしょう。しかし、無意識という深い闇の奥で違和感がじわじわと増長していく可能性もあります。そしてそれは、直接見えない分だけ扱いがやっかいです。

フリーライティング__あるいはそれを含む、自分の心と向き合う技術と時間。その重要性は今後どんどん大きくなっていくのかもしれません。

ともあれ、フリーライティングについて書かれた連載をぜひお読みください。ぜひとも「本」で読んでみたい連載です。

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