0-知的生産の技術

インプット・アウトプット・時間

よく言われる二つのルートがある。

  • アウトプットをするためには、まずインプットを積み重ねること
  • 最初にアウトプットがあり、インプットはその後からついてくる

まずはこの二つを検討する。


コップをイメージして欲しい。そこにどばどば水を注ぎ入れる。容器の縁まで水が入り、それでも水を注ぎ続ければやがてこぼれ落ちるものが出てくる。それがアウトプットだ。注ぎ入れる水はインプットに相当する。

アウトプットしようにも、空っぽではどうしようもない。だから、最初にインプットを大量に行う。間違ってはいないだろう。


空間をイメージして欲しい。その一部を一瞬だけ真空にする。どうなるか? 周囲の空気がその真空地帯に吸い込まれていく。それがアウトプットだ。周辺から集まる空気がインプットに相当する。

書きたいこと(あるいは書かなければならないこと)があるからこそ、情報を集められる。だから、最初に想定するのはアウトプットなのだ。これも間違っていなさそうだ。


(唐突に挟まれる)問い:

日常的に(あるいは業務的に)アウトプットを常に行わなければならない人のインプットと、そうではない人のインプットは同じでよいか。


コップから流れ落ちるパターンを想定しよう。そのためには、日々多くの情報を摂取する必要がある。ここまではいい。ここまでは誰でもたどり着ける。たとえば、一日30分の読書なりウェブサーフィンを続けるわけだ。

そうやって続けていくと、何かしら自分の中で言いたいことが溜まっていく。いいぞ、順調だ。

いよいよコップの縁まで水が溜まり、それが流れだそうとしている。

じゃあ、アウトプットのタイミングだ。いつやるのか? いまでしょ!

いやいや、そうじゃなくて、24時間という限られた時間でいつやるのか、ってことだ。

日常生活で最低限必要な活動がある、仕事もある、続けているインプットもある。一体どこにアウトプットをする時間があると言うのだ。書きたいことではなく、時間の方があふれ出ているではないか。

コップが満タンになるまで、日常生活のどこにもアウトプットの時間を確保していない人間は、仮にコップから水があふれ出てきても、それをアウトプットに変換する時間はどこにもない。

でも、たとえ書けようが書けまいが、日常生活の中にアウトプットを位置づけられている人は違う。そうした人はあふれ出る水をアウトプットに変換していける。少なくとも、そのための時間はあらかじめ確保されている。つまり、ここでは真空を作るパターンの方が活きてくる。時間の真空を作るのだ。

もちろん、コップが満タンになったら生活を切り替え、インプットを大幅に減らして時間を作る手はある。そういうシフトチェンジは、習慣性を強く持つ人類種ではなかなか容易ではないが、まったく不可能というわけでもないだろう。


もう一つ、時間に関する問題がある。

大量に、大量に情報を求める人がいる。もっと情報を、もっと情報を! そうして情報収集を効率化し、本のページを慌ただしくめくっていく。

たしかに情報は少ないよりも、多い方がいい__本当だろうか。

その情報が図書館なりパソコンなりに入っているなら、もちろん正しいだろう。でも、人間の脳ではどうだろうか。以前紹介した『眠っているとき、脳では凄いことが起きている』では、脳が記憶(情報)をどのように処理しているのかが、さまざまな角度から紹介されている。

たとえば、迷路に入れられたマウスは適切な通路に関する記憶を蓄える。寝ているときは、そうした記録を強化するし、起きているときでも「リハーサル」したりするようだ。通路の順が1→2→3→4であれば、寝ているときはそのつながりを強めるように動き、起きているときは4→3→2→1と逆順に、つまり因果関係を確認するように動くらしい。

どちらにせよ、言葉通り四六時中脳は記憶を処理している。その再生速度は、実際の数倍から十数倍ということらしい。それはそうだろう。16時間(起きている時間)の記憶を16時間かかって処理していたのでは、到底睡眠時間では間に合わない。高速な処理が必要だ。

でも、ここで思うわけだ。高速と言っても限界があるだろう、と。

大量に情報をインプットするのはいい。でも、そうして目から脳に入れた情報が脳に定着化する際、あまりに多いインプットは意味をなしているのだろうか。

人間が石やりで獲物を狩っていた時代では、ここまで大量の情報が脳内に流れてくることなどなかっただろう。私たち脳は、そんな情報を上手に処理できるほどの機能を有しているのだろうか。精神を適応させるだけの柔軟性を持っているのだろうか。

私はいささか怪しいと思う。つまり、限度があると思う。


日本が高度経済成長をひた走ってきたとき、そこでは「消費は美徳」と謳われた。資本主義の高らかなテーゼだ。それは節度に聞かせる子守歌でもあり、大量消費を易々と促していった。もちろん、それで経済が発展し、豊かさを手に出来たのだから誰に文句を言うこともない。

2010年代は産業がシフトし、情報産業が主流になっている。あるいはさまざまな産業に情報の根が行き渡っている。もちろんそこでも「消費は美徳」なのだ。ただしそれは「情報消費は美徳」に変わっている。だから、私たちはもっと情報を消費するように求められる。それが広告費を産み、経済にお金を落とすことに繋がるからだ。もちろん、そのことに文句を言うこともない。

ただし、私たちは、自分の足でちょっと立ち止まった方がいい。自分の時間の使い方、自分の認知資源の使い方、自分のパーソナル・ライブラリーの品揃え。そうしたものに目配せした方がいい。

なぜなら、それらの総合こそが、自分の人生なのだから。

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