0-知的生産の技術

情報の静寂(しじま)

以下の記事を読みました。

毎朝10分間の座禅を21日間続けてみて分かってきたこと | シゴタノ!

座禅についての紹介記事なのですが、こんな文章があります。

しばらく「ブーーーーーーーーーーーーーーーーーー」という音が鳴り続けます。

瞑想中はこの「音」に集中するのですが、この「音」は突然途切れます。

“騒音”が一瞬にしてなくなるので、直後に静寂が訪れます。この落差により「無」の状態に遷移しやすくなる、というのが本書の基本的な考え方です。

音がずーっと流れていて、それが突然止まる。すると「無音」が感じられますね。で、それをトリガーとして心を無の領域に持っていく、そんな感じでしょうか。

いきなり無音の状態におかれても、心(というか注意)はいろいろな方向に向いてしまいます。しかし、「ブーーーーーーーーーーーーーーーーーー」という音を流し続け、そこに注意を集めた上で、ふとその音を止めてしまうことで、注意の矢印の先を空っぽにできるわけです。

面白い仕組みですね。

私はこれを読んで、情報のインプットで何かしら近いことが言えないだろうかと考えました。そして、まさにそうして考えたこと自体が、一つの実例とも言えそうです。

たとえば読書中

本を読みます。本を読んでいる間は、ぐっとその世界に入ります。著者の語り口に耳を傾け、著者が組み上げた世界や論理に身を浸すのです。矢印はたった一つの方向を向いています。

で、たとえば、段落が終わったり、節が終わったり、章が終わったり、本が終わったりするとしましょう。矢印の先っぽは消えます。しかし、私の注意はまだそこに向いています。だから、思索の方向はほとんど一点を向いています。

本を読んでいるとき、ページをめくる手を止めて、何かしらを考えることがあります。

たいていそれは本の内容に関することで、せいぜい本の内容から連想した何かでしょう。そのような情報の静寂で考えているとき、意識は削り立ての鉛筆のように尖っています。言い換えれば、良い感じに集中しています。少なくとも、「今日の晩ご飯は肉じゃがにしようかな」とか「速報ニュースって本当にくだらないよな」とか「トゥエンティーフォーの続きみなきゃ」といったことは入り込んでいません。

私たちが日常的に生活しているとき、脳はきっといろいろなことを同時多発的に考えています。「じゃあ、これから○○について考えてみましょうね」と年上のお姉さんに言われたところで、すぐさま集中するのは難しいでしょう。

しかし、本を読んで意識が集中していた直後なら、思索の集中もさほど難しいことではありません。脳のスペックが有効に発揮されます。

唯一の問題は、何について考えるのかを自分ではコントロールできないことくらいでしょう。

本日の実際例、Web記事で

私はまず、冒頭にかげた記事を読み、それをEvernoteのWebクリッパーで保存しながら、「情報のインプットでも同じようなことは言えないだろうか。」というコメントを書き込みました。そして、それについて考えました。その結果が、この記事です。

92冊目「アテンション―注目で人を動かす7つの新戦略」ベン・パー、ひらくPCバッグのマーケティング話はほぼ全部ここに書いてありますな:[mi]みたいもん!

を読んで、もう一度『アテンション』を読み直しながら、ひらくPCバッグのマーケティングがどう対応していたのかをチェックしてみよう、と思いました。すでに本を読みながら考えていたことですが、中の人が語っているのですから、もう一度仔細に検討する価値はありそうです。

Mediumと個人ブログとの違いを読み解く1つの図 | Lifehacking.jp

を読んで、「じゃあ、どのようなコンテンツを自分のブログ以外に投下するべきなのだろうか」と考え、その後、Mediumとnoteのトップページにアクセスし、さらに3分くらい頭をひねりました。私はR-style以外にもnoteに記事を投下していますが、やはりそこには内容の性質に違いがあります。それをこの記事で提示された図を使って、どう説明できるだろうか、と考えました。

「マラソンは35キロをすぎてから」と瀬古さんはいった: 鷹の爪団の吉田くんはなぜいつもおこったような顔をしているのか

を読んで、「◯◯をすぎてから」と言えないような対象は何かないだろうかと考えました。案外なかなか難しいものです。あと、記事で紹介されているエピソードは私も聞いたことがあるので、きっと村上春樹さんの話だろうな、という推測も立てました。

【連載】森博嗣 道なき未知〈第7回〉それぞれに違う道 | BEST TIMES(ベストタイムズ)

を読んで、同じように見えるけどやっぱり違いはあることと、違うように見えるけどやっぱり同じところはある、ということについて考えました。前者は個々人の尊厳を、後者は公益や社会における共感を支えるのでしょう。どちらも大切なことです。あるいは、「皆違っている、という点について同じ」という言い方もできるのかもしれません。

今朝、私が「読んだ」記事は以上です。見出しに「触れた」記事はもう少しありますが、頭から終わりまで文章を読み、その後の静寂に浸った記事はこれだけです。これは別に私が忙しいからではなく、単に記事を読むたびにいろいろ考えているので、「記事を読む時間」が限られているからにすぎません。

さいごに

二者択一しかなく、「たくさん記事は読めるけど、静寂はなくなる」か「読める記事は減るけど、静寂は確保できる」ならば、私は後者を選択します。だって、それが読むことの面白さの一つなのですから。

でもってできれば、そうした静寂を発生させられるだけの力(あるいは印象)を持つ記事に触れたいところです。それ以外はまあ、暇つぶしというかおしゃべりにすぎません。それはそれで楽しいですが、そればかりだと逆に退屈します。

情報の静寂。

情報と静寂。

この記事を読んだ後に、それが訪れていればよいのですが。

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