メルマガに頂いた感想ツイートなのですが、広がりがありそうなテーマだったのでブログで紹介させていただきます。あっ、メルマガは毎週月曜日にお送りしていますのでよろしくお願いします(宣伝終わり)。
新GTD本、その2。ただ、創造的活動を「ゆとり」でやるという考えと、創造的とそうでない活動を分けて考えることに、無理があるのでは、というのが今のぼくの考えです。Tak.さんの仕事と生活は分けられない、と多分同じ意見と思います。#WRM感想
— Go Fujita (@gofujita) 2016年3月16日
二つ、問題提起があります。
- 創造的活動を「ゆとり」でやるという考えは無理があるのでは
- 創造的とそうでない活動を分けて考えることには無理があるのでは
同じような事柄を示してはいますが、ここでは分けておきましょう。それぞれ検討してみます。
創造的活動を「ゆとり」でやるという考え
この「ゆとり」は、おそらく二つの解釈が可能でしょう。一つは、時間的なゆとり。もう一つは、精神的なゆとり。どちらも創造的活動を行う上で必要な気がします。
では、GTDを実施すれば時間的な「ゆとり」が手にできるのか。これはいささか怪しいところです。GTDはタスク(というか自分のやるべきこと)をオーガナイズする手助けにはなりますが、その人の基本的な価値観が「もっと、仕事を!」というのであれば、タスクを効率的にこなせるようになったとしても、実施する作業が増えるだけでしょう。
また、自分ではコントロールできない要因によって大量の仕事がお邪魔ぷよのように降り注いでくることもあります。少なくとも、絶対の助けにはなりそうもありません。
しかし、精神的な「ゆとり」、言い換えれば落ち着きを手にする助けにはなるでしょう。「やるべきことはリストにある。それを見れば忘れることはない。だからこの15分はブレストに集中しよう」といった心持ちや、何か考えごとをしているときに、「あっ、そうだあれをやらなくちゃ」と思いついても、とりあえずinboxに放り込むことで心の軌道修正を行うことができます。これもまた「ゆとり」と呼べるでしょう。
かつて梅棹忠夫さんも『知的生産の技術』の中で次のように書いています。
これはむしろ、精神衛生の問題なのだ。つまり、人間を人間らしい状態につねにおいておくために、何が必要かということである。かんたんにいうと、人間から、いかにしていらつきをへらすのか、というような問題なのだ。整理や事務のシステムをととのえるのは、「時間」がほしいからではなく、生活の「秩序としずけさ」がほしいからである。
GTDを行えば、完璧な「秩序としずけさ」が天使のように降臨する、ということはないにせよ、生活の一部分にでもそれを取り戻すことはできるでしょう。この点は重要です。
創造的とそうでない活動を分けて考えること
問題はこちらです。
「創造的な活動と、創造的ではない活動」を分けることは可能でしょうか。もちろん、分けること自体は可能です。のこぎりやハンマーを使えば、100cmの箱にだって人間は詰め込めます。でも、それはもう別のものです。だから、もう少し丁寧に考えます。
たとえば、「本の企画について考える」はどうでしょうか。これは創造的な活動です。では、「電話をかける」はどうでしょうか。創造的ではない__本当にそうでしょうか? 簡単なメッセージを伝えるときですら、相手がどう受け取るかをイメージして言葉を選ぶことができます。それを創造的でないと評するのは無理があるでしょう。
もちろん、そんなことを考えないで電話をかけることもできます。というか、その文脈で言えば、「本の企画について考える」ですら、創造的で無くすることもできます(二番煎じ、というやつですね)。つまりそれは、タスクそのものが要求するものというよりも、主体的な姿勢(関わり方)の違いに起因するのです。
さらにややこしい話があります。
「牛乳を買う」という活動について考えましょう。「近いけど高いコンビニと、遠いけど安いスーパー」のどちらかで買うのかの判断が必要ですね。それぞれのお店までの道順を考えることも必要ですし、お店に入ってからもどのルートで店内を回るのかも考えなければいけません。でも、それだけではないのです。
たとえば1.5Lの牛乳パックをみて、「細長の書籍を作ったどうだろうか」と閃くかもしれません。これはもう純然たる創造的活動です。
発想の種は遍在します。人生のあちこちに散らばっているのです。それを拾う行為は創造的活動であり、どこにでも見出すことが可能です。
さらにややこしい問題
最後に考えておきたいのが、知性の発露の仕方です。
(精神的に)落ち着いた環境で発露される知性もあれば、環境との相互作用によって発露される知性もあります。前者を象徴する場所が書斎で、後者のそれはブレスト会議です。
「ゆとり」に関係するのは書斎ですが、創造的な活動はその場所に止まるものではありません。
たとえば、「火事場のアイデア力」と呼ぶしかないようなものもあります。締切前の(あるいはちょっと過ぎてしまった)作家に舞い降りてくるあの力です。そこには「ゆとり」のかけらもありません。でも、だからこそ脳はフル回転しています。
プロ棋士の対戦では、騒がしくするのは当然厳禁ですが、それでも棋士には持ち時間があり、ぎりぎりのところでは瞬間的に一手を選ばなければいけません。そこで活きるのはいわゆる直感です。直感は、刹那に生まれるものであり、ゆとりとは無縁なのものです。
さいごに
いくつか言えることがありそうです。
- すべての行為は創造的に行いうる
- 創造的に行わないという判断もできる
- 能率・効率は精神的なゆとりを得るため
- 知性の発露には二種類あり、ゆとりを必要としないものもある
個人的に思うのは、片方の知性の発露だけではどうしても偏りが生まれるだろうな、ということです。つまり、書斎に入り、そこから出て対話することが重要なんじゃないかと思う次第です。
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