線の切れ目が意味の切れ目、あるいはバレット一つの重さ

三つの画面を見比べていただこう。どれも私のWorkFlowyで、当てているスタイル(CSS)が違うだけだ。

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面白いほどに異なった印象を覚えるのではないか。印象でなければ雰囲気と言ってもいい。

もちろん、どれも機能は同じである。ベースとなっているのは同じWorkFlowyなのだから当然だ。そして、「コンテンツ」も同じである。別の言い方をすれば、記載されているテキスト情報に違いはない。でも、受ける印象は異なっている。

だから、私はふと考える。これは「同じコンテンツ」と言えるのだろうか。

印象が異なるということは、私たちの認識に働きかける力が異なるということだ。そして、まさにその力こそが「コンテンツ」なのではないだろうか。つまり、これはコンテンツが異なると言えるかもしれない。

メディアはコンテナとコンテンツに分けられる。でも、実は純粋なコンテンツというのは概念的存在であって、それは常にコンテナと共に私たちの元に届けられれる。そして、コンテナの在り方も私たちに影響する。だから、実体として考えるとき、コンテンツとコンテナは切り離せない。

どういうことか?

見た目が重要、ということだ。

各スタイルが与える認知

それぞれのスタイルについて少し見ていこう。

(1)は標準的なWorkFlowyのスタイルだ。各行の頭にバレットが付いている。三つの例の中で、一番「文章感」が薄い。個々の要素が独立していて、「さあ、動かしてみなよ」と挑発しているようにすら感じられる。

(2)は私が普段使っているスタイルで、先頭のバレットの色のコントラストが低く、普段はほとんど見えない(=存在が気にならない)。たったこれだけで印象が「アウトライナ−」から「エディタ」に近づく。段落単位で操作可能なエディタ、がこのスタイルを使っているときに覚える印象だ。

(3)は最近見かけたカードタイプのスタイル。下位の項目にはバレットは表示されていないが、代わりに段落と段落の間に線が入っている。これだけでエディタ的な雰囲気は消え去る。文章的なまとまりは感じるので「アウトライナー」感はないが、それでも「エディタ」感はしない。不思議な感覚だ。たった1px程度の線が、そこまで認識に影響を与えることに驚きを禁じ得ない。

以下のブログ記事から、少し画像を拝借する。

WorkFlowy用スタイル『Cardy』をカスタマイズ – ウラガミ

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スマートフォン用のスタイルだが、これまたまったく違う印象を覚える。(3)と似ていながらも3段階ぐらい前に進めた印象だ。鍵を握るのは言うまでもない、項目と項目の間にある「隙間」である。でも、こんなものは単に視覚的な違いでしかない。言わばビジュアル上のレトリックである。でも、その隙間のおかで上の塊と下の塊は意味的に別の存在だ、という認知が発生する。

私たちが知的作業を行うのはどこか? もちろん脳内だ。だから(ビジュアル的レトリックで発生した)認知でも知的作業の作業空間に作用する。単なる「見た目」の問題ではないのだ。

Evernoteのビュー

Evernoteでも見てみよう。

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もちろんどれも異なる。一番強い差異を感じるのは、やはりカードタイプとリストタイプだろう。その認知的違いを、私は言語に落とし込むことができないが違うことは間違いない。

だからある種の作業を行うときはカードスタイルが向いているし、そうでないときはリストスタイルが向いている。そういう使い分けも、地味ではあるがEvernoteのテクニックである。

が、カード以外のビューにはさほど大きな違いはない。だから、Evernoteの発展的余地はここにもあると思う。新しいビューの発明は、Evernote利用のさらなる一歩を引き出すに違いない。

さいごに

これらのツールは、基本的に「脳の中にあるものをツールに出して、そこで代わりに操作する」ことが想定されている。

特にアウトライナーやマインドマップ的な心象操作なツールは、(脳内にしか存在しえない)意味的配置を空間的配置にメタファーにして(あるいは空間に意味を投射することで)、その機能を実現している。

だから、私たちがそのツールにどのような空間を感じるのかはかなり重要なのである。これはぜひともツール開発者の方に考えてもらいたいことであり、私たちが知的作業ツールを選択・使用する上でも考慮したいことである。

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